●昨日の日記に書いた、マネの絵の表層性、移ろいやすさ、儚さの感じは、徹底して、ポップやキャッチーという感覚と相反するものなのではないかと思った。マネの絵は、決してキャッチ―になり得ないものこそを表現しようとしているのではないか。ビュールレ・コレクション展に展示されている「オリエンタル風の衣装をまとった若い女」もそうだし、マラルメや、ベルト・モリゾの肖像などが代表的にそういうものだろう。モダニズムの画家のなかで、マネこそが最もアンチ・ポップな画家なのではないか。マネに比べれば、セザンヌの方がまだいくらかポップ要素があるようにさえ感じられる。
いやでも、「笛を吹く少年」や「草上の昼食」などは、まさに「近代絵画」のポップアイコンのような扱いになっている絵だ。マネには、「描写する画家としての資質」とはまた別に、「意識的にスキャンダルを仕掛ける」という山っ気もあって、この分裂した感じがまたマネの面白さでもあり、マネの「近代性」でもあるのか…。そんな単純な話ではないんだな。
一方に、徹底したアンチ・ポップとして、(決してキャッチ―にならない)表層性や儚さを巧みに描出する画家であるマネがいて、もう一方に、スキャンダル(社会的な関係性)を意識的に作中に持ちこむ画家としてのマネ(「オランピア」や「マクシミリアン皇帝の処刑」など)がいて、この両者がどのようにかみ合っているのか、いないのかについては、ポップアイコンになってはいないし、スキャンダルとは必ずしも結びつかないが、表層的な儚さの描出のみにも還元され得ないような、非常に難解で魅力的ある問題作たち(「バルコニー」や「アトリエの昼食」、「フォリー=ベルジェール劇場のバー」など)について、突っ込んで考える必要があるのだろう。
いずれにしろ、このような分裂した(決して純粋な「絵画」へとは傾倒していかない)姿こそが、ボードレール(の美術批評)的な意味での「近代絵画」の画家だと言えて、おそらく、ボードレール的な意味で真に近代画家と言えるのは、マネ一人くらいしかいないのではないか。