●国立新美術館のビュールレ・コレクション展は、気になる作品だけをピックアップして観たという感じ。ぼくにとってはセザンヌの「庭師ヴァリエ」が圧倒的だった。ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」は、そんなに冴えた印象ではなく、この手のロリ幼女を描いたルノワールの作品としては、ブリヂストン美術館にある「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」の方が圧倒的に切れているのではないかと感じた。ボナールは、そんなに良い作品は来てなかったけど、ヴュイヤールが渋かった。ピサロ、シスレーも渋い。モネの睡蓮は、まあ、さすがだなあ、と。ただ、ジャコメッティ展の時もそうだったけど、撮影OKにすると、記念撮影のためのモニュメントが置いてある場所みたいになってしまって、絵を落ち着いて観られなくなる。
http://www.buehrle2018.jp/works
●改めて面白い画家だと感じたのがマネで、「オリエンタル風の衣装をまとった若い女」という絵だった。こんな変な絵を描くのはマネしかいないよなあと思いながら、近代絵画におけるマネの絶対的な「新しさ」を思っていた。「この感じ」を出している画家はマネ以前にはいないはず。
勿論、ものにもよるのだけど、マネの絵の多くが本当に薄っぺらい。油絵具による絵の特徴は、半透明な層を複数重ねることで得られる光の微妙な屈折がつくる独自の色彩の厚みで、それは、構築的な古典技法を完成させた15世紀のファン・エイクから、即興的に絵の具を混濁させる印象派(たとえばモネ)まで、基本的には変わらないと思う。スーラのような点描やゴッホなどは、あえてその「半透明な層の重なり」を排しているわけだけど、そのかわり油絵具の物質的な感触や筆触を強く前面に出すことで、別の意味で「厚み」をつくっている。
しかし、マネの絵の多くは、そのような油絵具の特徴を殺すかのように薄っぺらい。その技法は、下手をすると風呂屋のペンキ絵とか、昔の映画の看板絵とかわらないようにさえ見える(超上手いからそうは見えないだけで、技法的にはそんなに変わらない)。そして、この薄っぺらさにしか出せない表情を、マネがはじめて絵画に導入した。この薄っぺらさこそが、近代的な都市(19世紀のパリ)ではじめて生まれた感覚なのだと思う。
この絵では、オリエント風のシースルーの衣装をまとった、(絶妙な感じで)だらしない感じの体型の女性が、アンニュイなというより、なんとなくぼさっとした感じで、ふっと気の抜けたような表情でつっ立っている様を、おそらくとても素早い筆致で捉えている。いわゆる、美しいとか、絵になるという感じとはまったく違うし、ドガのように、ダンサーや競馬馬の素早い動きの一瞬をスナップショットのように的確に捉えるというのとも違う。倦怠とか言ってしまうと、恰好がつきすぎてしまうというか、形がつきすぎてしまうというくらい、なんとも言えない、気の抜けた(比喩的な意味で輪郭のぼけた)感じ。オリエント的な趣味を前面に出しているわけではないし、うつくしい表情を捉えているわけでもなく、かといって、生々しいリアリズムというのでもない。魂も抜け、身体の重みや充実もなく、まさに陽炎のように移ろう、実体を欠いたような、魂も抜けたような、表層的でしかないようにみえる表情、イメージ。この感じをこんなに的確に捉えられるのはおそらくマネしかいない。
特にこの「オリエンタル風の衣装をまとった若い女」という、マネの絵のなかでは特に傑作というわけではなく、うつくしくもなんともない、どちらかというと不格好な(しかし、決して「不格好さ」を強調しているのでもない)絵から、マネの絵画のオリジナリティや新しさが強く表れているように思われて、うーんと唸りながら観た。この「感覚」が(絵画においては)、マネにおいて歴史上はじめて現れたのだと思う。
(マネの絵の特徴であるこの表層的な薄っぺらさは、グリーンバーグやフーコーが言うのとは違って、「絵画平面の自己言及」から生まれたものでは決してないように、ぼくには思われる。それは、ボードレールやマラルメに直接通じるようなもっと「文学的」な何か、というか、文学や都市の風俗と同期した何かだと思われる。)
●これすごい。小鷹研究室の重力反転。
https://twitter.com/kenrikodaka/status/976409052522545153