●関係者の方からブルーレイをお借りすることが出来たので、『やがて水に歸る』(榎戸耕史)を観ることができた。とてもよかったので二度観た。
●偶然は本当に偶然であるのか。偶然と陰謀の間で宙づりになる、あるいは、陰謀を巡らすものと陰謀に操られるものとの間に漂うこの物語は、夏目漱石の「彼岸過迄」のようであり、リヴェットのようであり(はじめの方にある娘と父との電話の場面は「パリでかくれんぼ」からきているだろう)、鈴木清順の「陽炎座」のようでもある。
社会的に何者でもないもの、父の保護から逃れられない娘には、偶然すら許されないのだろうか。とはいうものの、陰謀を操るものもまた万能ではない。第三者の介入により、陰謀はそれを操る父が描いた通りにすすむわけではなくなる。しかしだからといって、プレイヤーがAからBへと変化とようと、AもBども、どちらにしても代替可能な、ほかの誰だとしても大差ない誰でもいい誰かにすぎないことは同じだ。父にとって重要なのは、男が「何者か」であるということではない。娘が、自分の策略のなかで男と出会うことであり、その策略のなかで相手を見つけるというところにある。故に父は、自分の計算違いを知ってもそれを許容する。「それなら君にも権利はある」と。男の出会いは、女の父から「与えられた餌」にすぎない。
二人は、策略によって「あたかも偶然(運命)であるかのように」出会う。男は「はじめてすれ違った時から好きだった」というが、それはあくまで(あらかじめ用意された)二度目の出会いから過去へ遡行されることで生まれる感情であろう。男は最初、橋の上で三人の女性とすれ違う(三人の女性を記憶にとどめる)のだが、その三人のうちに、再びあったのは一人しかいない。もし二度目に出会うことがなかったら、「はじめてすれ違った時から好きだった」という感情は潜在的なままで留まり、意識の表面には浮上してこなかったかもしれない。
二度目の出会いを偶然(運命)と感じるのは男の方だけだ。最初の「すれ違い」を女は覚えていないのだから、女にとって男はあくまで初対面だ。男と女の思いが双方向になるには、三度目の出会い(偶然)が必要だった。この、三度目の偶然が、本当に偶然なのか、これもまた策略の一部なのかはよくわからない。もし、この三度目の出会いが本当に偶然であるとしたら、男にとっての女との出会いと、女にとっての男との出会いとの間に非対称性が生まれる。
男にとって、女との出会いと再会は完全に仕組まれたものだが、女にとって、少なくとも「再会」の方は父の策略とは無関係な偶然だということになるからだ。女にとって、再会が「偶然」であるということは、男との出会いが「父の磁力」の外で起こった出来事だということを意味する。しかしよりにって、「偶然」に出会った男が、実はすでに父によって「仕込まれた」男であったという別の悲劇的な「偶然」があるのだ。女はなぜ、別の男と出会えなかったのか。
女が偶然出会った男は、偶然にも「すでに父によって仕込まれた男」だった。この偶然自体には父の力(意図)が関与していないとしても、結果として(偶然にも)、これでは女は未だ父の磁力の圏内に閉じこめられたままなのだ。この残酷な偶然によって、女は父の圏内に留まることしかできず、どこにも行けない女のままでいるしかない。
そして男もまた、「父の策略」によって、女と「偶然に出会う」という可能性を完全に消されてしまった。男は一度、女の父の策略のなかで女と出会ってしまった以上、自分自身の存在はどうしたって女にとって「父の磁力(策略)」を示すものであるしかなくなってしまっている。たとえ、男にとって三度目、女にとって二度目の出会いが、まさに純粋な「偶然=出会い」だったとしても、それよりも前に男は「父の策略」によって汚れてしまっている。その、最初についたミソをなかったことにして、三度目の出会いを無垢な出会いとするわけにはいかない。
そしてこの事実の責任は、男にも女にもない。彼らと無関係なところで父がかってに仕掛けた「策略」が彼女たちの運命を汚すことになる。
男と女は、自分たちは社会的な存在としてはゼロだと感じ、自分たちにはなにも生み出すことはできないと感じている。それは、二人がどちらも父の手駒にすぎず、「父の策略」の外でさえも、父の磁力に囚われているという事実からもたらされる。女はどこまでも父の磁力のうちにあり、男は女とどんなに親密になっても父によってきられた交換可能なカードの一枚であるしかない。二人は、父の予想に反して「子供をつくる」ことを企てたようだが、それにさえ失敗した様子だ。そして父は、父の磁力を超えられないままの娘を残して、今にも亡くなろうとしている。
●この映画は、東京の風景、頭上にのしかかる橋梁、通過する電車やモノレール、橋を渡る人々などを、水路を滑るように進む船からとらえられた映像を支柱にするようにして、夏(一度目の出会い)、正月(再会)、春(三度目の出会い)という三つの時間が、バラバラに切り刻まれて現れては、消えていく。東京は水の上に浮かんでいる。水面に映った風景が波によってばらけていくように、時系列は解されていく。しかし、その程度のことで、父の磁力は解体されないし、策略が、計算違いをあらかじめ内包した形で、偶然(出会い)を殺してゆくということの次第も解体されない。まるで回想するかのように未来が現れ、けっして逃れられないことを証すように過去が回帰される。陰謀と運命の間、策略と偶然の間で宙づりになった二人は、どこにも行くことはできず、その間で漂っているしかない。
男も女も、そして男の友人も、すべて父の磁力の内に囚われ、そのなかでもがき、あるいはそのなかをただ漂う。父の磁力、父の策略は、もちろん、父の権力によって作動する。しかし、一度作動した策略による罠は、策略を操る主体としての父は無関係に人々の関係をとらえ、操り、縛り付ける。父自身ですら、そのような磁力の構造の一項にすぎないだろう。そして、策略の中心にいた父が亡くなってしまったとしても、「策略によって出会わされた関係」から、「策略」が差し引かれるわけではない。
この映画の持続、水上をなめらかに滑るような魅惑的な運動は、策略と偶然の隙間に落ち込んでしまった男と女が、社会的にはゼロに等しく、なにものをも作り出すことができず、強い磁力の圏内で、どこにもたどりつけず、ただ漂うことができるだけだという事実から導かれているように思う。どこにも行けず、どこにもたどりつけない以上、ただその時その時の「ここ」を漂うしかない。このどうしようもない閉塞こそが、東京の風景を、男や女の振る舞いや表情を、滑るような映画の運動を、うつくしく際立たせているように感じられる。