●地元の美術館でやっている「リアルのゆくえ」という展覧会が予想外に面白かった。高橋由一から始まる、西洋画からインパクトを受けた日本の写実系の絵画の系譜(官展系でもモダニズム系でもない)を示した展覧会。
ヨーロッパの画家たちが、きわめて高い再現性をもつ「写真」の出現をうけて、絵画において再現性とは別の可能性の追求を行っていたほぼ同じ時代に、日本では、西洋画における再現性(迫真性)の高さにインパクトをうけて、写実を追究する画家たちがあらわれた。これは、日本が遅れていたということを示すわけでもない。1850年くらいには日本にも写真が入ってきているし、1860年代には職業的な写真家もあらわれている。
西洋画が日本の画家たちにインパクトをあたえたのは、おそらく再現性というより迫真性だと思われる。つまり、油絵具によって描かれた「鮭」は、実際に目で見る実物の「鮭」よりも、ずっと生々しくリアルに(エモく)感じられた、のだと思う。写真よりも、そして実物よりも、油絵の方がよりリアルだ、ということではないか。ここで日本の画家たちは、油絵具というニューメディアを発見し、それが写実に繋がった、と(遠近法とか科学的視点の流入とかも勿論あるとしても、それは明治以前からあった)。
やはり圧倒的に面白いのは、明治初期の、材料も資料もロクにない状態で試行錯誤して油絵を描いている時期の画家の作品で、これらは、絵画作品というより、ひたすら写実を、生々しい迫真性を追求しているような感じ。異質なものに直にぶつかっている。これは見応えがある。
それが明治中期になって、だいたいこんな感じでやれば油絵としてかっこうがつくよね、みたいなことが共有されはじめると、次第にぬるくなってくる。中途半端に日本的な表現を入れてきたりするようになる。そして大正に入ると、そのぬるさを吹き飛ばすような感じで、岸田劉生があらわれる。岸田劉生は、ポスト印象派の絵とかも知っているから、迫真性の追求と同時に、絵としてもきっちりしているというか、洗練されてもいる。このあたりで一皮むけた感がある。
この展覧会には現代の細密描写系の作家の作品も展示されているのだけど、そこではある逆転現象が起きている。現代の画家の描く細密描写の絵は、リアルさや迫真性よりもむしろ、その細密さが幻惑性や幻想性の効果となって表れている。詳細に描けば描くほど、物の実在感から離れて、映像的(網膜的)になってゆく。
高橋由一や、あるいはクールベのリアリズムは、視覚的な再現性だけでなく、油絵具の物質感が、描かれる物の実在感の隠喩となっているから、そこに過剰な(明治初期の画家の場合などはいささか度を越した、エモすぎる)迫真性が生まれるのだけど、現代の作家の細密描写は、視覚的な解像度が上がり過ぎているために、視覚性に特化され、迫真性が幻想性に転化している。物がそこにあるというより、脳に視覚像を直接送り込んでいる感じ。それは、良し悪しではなく、現在においては必然的というか、まあ、当然そうなるよね、と。
伊丹万作の絵も展示されていた。
●一つとても気になったのが、長谷川潾二郎という人の描いた「猫」という作品。猫を描いているのだけど、猫に似ているけど猫ではない、すごく気持ちの悪い物体になっている。この絵は、美術館のサイトで観られる。
http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/20162005_00001.html