アート・インタラクティブ東京で、浅見貴子・展

●新橋のアート・インタラクティブ東京(http://www.artinteractivetokyo.com/AITjapanese/jindex.htm)で、浅見貴子・展(http://www.artinteractivetokyo.com/exhibition/ex1-azami/exh1azamifront.htm)を観た。ぼくが知っている限りで、日本で絵画を制作している現役の画家のなかで(岡崎乾二郎と並んで)、今、最も充実した仕事をしているのが浅見貴子だと思う。同時代の画家が、これだけの仕事をしていること、つまり、現在でも、これだけの質をもった絵画が生まれているということは、同じく絵を描いているぼくにとって、「絵画」というジャンルが今も決して死んではいないこと、絵画を描くということが、より高いところにある何かを目指すべき行為であることを教えてくれる。現在のアートシーンに溢れているような、どうでもいいような現代絵画にだけ触れていると、ついついどうしても、絵画というものを低く見積もりがちになってしまう。例えばリヒターのような、絵画をたんに視覚的効果だけのものと見限った上で、そのなかで最大限の効果をスペクタクルとして演出するような作品が、その本気ともシニカルともつかない態度で人を幻惑させる光景を目の当たりにしたりすると、セザンヌだとかマティスだとかについて本気で考えている自分は、既に終わってしまっているものをもてあそんでいるだけではないのかという疑問を感じたりもする。しかし、現代的だろうが何だろうが、くだらないものはたんにくだらないのだということを、良い作品は、その作品の良さによって示してくれるのだ。
●浅見貴子の作品を観る時、まず、その白と黒とが交錯し反転する地響きのようなリズムの強さ、特に、穿たれた点の黒い色の、吸い込まれるような凝縮力に目を吸い寄せられ、ガツンとやられ、釘付けにされるだろう。まずそれは、何だかわからないがある「強さ」として、目に飛び込んでくる、と言うより、ある波動に巻き込まれるようにして、体感される。しかしその強さは、決してこけおどしのものでもないし、暴力的なものでもない。地響きのようなリズムを響かせ、心臓を鷲掴みにするような穿たれた点の黒い色は、紙の白い色と激しく対立するものではなく、その白い地からじわじわと滲み出てきたかのようなやわらかな表情をもち、白い色との繊細な関係をかたちづくっている。穿たれた黒い点は、その一つ一つに目が吸い寄せられ、釘付けにされるような魅力的な表情をもつのだが、その隣の白い部分や、それとは別の点が同時に目に入るので、視線はどうしても、そちらの方へとをズレ、動いてゆこうとする誘惑にかられ、釘付けにする力と、動いてゆきたくなる誘惑との間で、視線は(それを観たいという欲望は)、引き裂かれ、宙づりにされたまま、激しく振動する。黒い点は、画面内での配置によってリズムをつくりながらも、その一つ一つに、それぞれその都度の息づかいが込められており、そして、点を穿つという行為のもつ、決意のようなものさえもが込められている(だから、点の一つ一つにそれぞれ固有の内実がある)。黒い点は、一つ一つが、何かを切断してゆくような(決意のこもった)強いショックのようなものを観る側に与えるのだが、それだけではなく、同時に、光がそこから滲み出してくるような、やわらかで魅力的な表情ももっていることが、画面に、いくら見続けていても決して飽きることのない複雑さつくりだす。
●浅見貴子の作品は、木の枝の形を思わせるような、黒と白(そして多少の中間のトーン)の線と、その線と絡み合いつつ、独自のリズムを生む、無数の点によってかたちづくられている、と言ってもよいと思う。線は、木の枝の形を描写的に再現するというよりも、画家によって目にされた実際の樹木の形態が、画家が線を引くという身体的の運動のなかに混ざり込むことによって生まれたものだと言えるように思う。だから樹木の形態は、たんに視覚的なものとして利用されているだけではないだろう。それには、画家が木の下に、木の傍らにいる時に感じた感覚の全てが込められており、そしてその感覚は、今、目の前にある木からだけ受け取られるものではなく、目の前に見えているものから触発された、別の時間に木を観た記憶も混ざり込むだろう。浅見貴子の画面に、樹木の形態(の「視覚的な像」)とは直接関係がなく、下手をすると分離してしまいかねない「点」が無数に浮かび上がってくるのは、画家が木の下にいる時に感じられた(たんに視覚だけに留まらない)感覚によって要請されたからだと思う。浅見貴子の作品に、ある充実した内実が込められていると感じられるのは、例えば「点」が、たんに画面上の構成要素として、画面をもたせるためのものと持ち込まれるのではなく、あくまで、実際に樹木の下にいる時に感じた感覚の要請によって、その感覚によって触発された、他の樹木や過去に観たられた絵画作品などの記憶の要請によって、画面のなかから生まれたものであることによるのだと思う。紙の選択や、紙の裏側から描いてゆくという手法もまた、たんに技法の問題としてあるのではなく、そのような感覚によって要請されたものだからこそ、わざとらしくなく、説得力をもつのだろう。(余計なことだが、たんに視覚像=映像を描くことしか出来ない、現在の多くの、というか、ほとんどの、画家とは、この点でまったく異なっている。)だから、浅見貴子の作品を観るということは、たんに視覚的な経験ではなく、視覚だけでは足りないのだ。
●今回の展示には、六枚のパネルからなる屏風絵のような形式の作品があった。屏風絵がいわゆるタブローと異なるのは、その表面がV字形の凹凸をもち、つまり純然とした平面ではなく表面に空間を含んでいることと、それが壁に依存せず、自分の力で立っているという点であろう。このような形式の作品が試みられたのは、浅見氏が日本画科の出身であることが関係したのかもしれないし、会場の狭さに対して、その狭さのなかで最大限のサイズの作品を展示するためだったのかもしれないし、また別の理由があったのかもしれない。このような形式の作品を観て思ったのは、屏風絵とかタブローとか言った形式の違いよりも、「浅見貴子の作品」ということの方がずっと強い、ということだった。つまり、その辺は、状況に応じていくらでも臨機応変にやればよいのだという強さが、浅見氏の作品にはある。(例えば過去に、モダニズム的な絵画観の乗り越えみたいにして、屏風絵のような形式を使って作品をつくる作家がいたが、それは結局、頭のなかで組み立てた問題を頭のなかで乗り越えただけで、作品の内実としては日本趣味的なマニエリスムでしかないので「弱く」て、モダニズムという共通の了解事項=文脈が成り立たないところでは、ほとんど意味をもたない作品でしかなかったと思う。)絵画作品を「絵画」として成立させている内実は、タブローだとか屏風絵だとかいう形式の問題とは別のところにある、ということを、作品そのものの強さによって教えられた、ということだ。人類が最初に描いた絵画は凹凸のある、周囲を取り囲まれた、暗い洞窟の壁に描かれていたものだ(しかしまた、このことを変に強調すると別の間違いへとひっぱられるのだが)。それがキャンバスの上になり、あるいは土の上になり、紙の切れ端の上になったとしても、絵画が絵画であることの原初的な強さにかわりはない。(勿論、細かい技術的な問題の違いはあるのだが、それはそもそも、個々の作家、個々の作品ごとにも違うものだ。)
●浅見貴子・展「光を見ている」は、新橋の、アート・インタラクティブ東京(TEL03-3593-7274)で、26日の水曜日まで。日曜日は休み。