●赤信号で立ち止まる。道路に車の姿はまったくない。右を見ても、左を見ても、ずっと先まで車は見えない。それでもそこに立ち止まっているのは、交通規則を守るためではなく、赤信号という言い訳でもなければなかなか、道の途中でぼーっと立ち止まることなど出来ないからだ。見上げると、薄曇りのために星は見えずに、地上の光を雲が反射したぼやっと明るい空がある。一階に飲食店、二階に学習塾の入った四階建ての建物の窓は、皆、灯りが消えている。遠くからバイクの音が聴こえる。たくさん本の入った鞄の重さが、肩ひもから肩にかかって鈍く痛む。どこからか、風呂場の湿った空気と石けんの匂いが運ばれてくる。ふうーっとため息をつく。なんとなく疲れている。部屋に着くまではもうしばらく歩く。
●おそらく、本当に重要な何かは、きわめて狭くて閉ざされた関係によってしか伝えられない。師匠と弟子とか、親しい友人とか、恋人とか夫婦とか、あるいは親子とか。しかし、芸術は、作品は、本来、狭く閉ざされた関係によってしか伝わらないものを、隔たった場所へと、もっと遠くへと、伝える。空間的、時間的に遠く離れた誰かから、いきなり耳元で囁かれたかのように、それは伝えられる。空耳のようにあやふやに、しかし、濃密な接触であるかのように逃れ難く。遠くからくる近い感触。それははじめから広く多くの人に伝わることが期待されたものではない。それは、限られた人に(おそらく偶発的に?)しか伝わらない。出来る限り、高く、遠くへ、そして強く、ということだけが重要だ。「開かれた」というのは、そういうことだと思う。そして、そのささやきを聞いた者は、それを聞いてしまったという責任を負う。
●昨日観た、坂本政十賜、山方伸・展で感じた、写真を見ることの不思議さについてもうちょっと考えてみる。例えば、百年前に撮られた写真を見たという記憶は、つい最近撮影された写真を見る時の見方を変える。当たり前だが、百年前に撮られた写真には百年前が映っている。そこには、百年前の風景があり、百年前、それが撮られたちょうどその時に、そこに映っていた人が「そうしていた」仕草がそのまま定着されている。それは、百年前に描かれた絵を見るのとはちょっと違う。絵は、イメージであると同時にそれ以上に物質でもある。写真は、勿論、印画紙という物質でもあるが、しかしやはりイメージである。百年前に撮られた写真を、今、見る目は、百年前に撮られた直後にそれを見ていた人とほぼ同じ、百年前のイメージを見ている。だとすれば、つい最近撮られた写真を見る私が見ているイメージは、百年後にそれを見ているかも知れない誰かと同じイメージを見ていることになる。私が、今、見ているものは、百年後の人が見るものと(ほぼ)同じなのだ。その時、それを見ている私の目は、そのまま(既に私がこの世界からいなくなった後の)百年後の目でもあり得る、ということになる。この時、今、知覚している「私の知覚」が、「私の」ものであることからするっと抜け出る。私の眼差しは、現在という時間をすり抜けてしまう(同時に、写真を見ている私は、ここ、ではなく、写真に映っている場所--のイメージをその外側から--見ているので、ここという空間からもすり抜けている)。その誰のものでもない視覚は、百年前の眼差しと同じイメージを見ているし、百年後の眼差しと同じイメージを見ている。この感じはだから、紙という物質に焼き付けられた写真から感じられるもので、ウェブやモニター上で見た写真からは感じられない。それは仮のものであり、電源を落とせば消えてしまう。しかし印画紙上の写真は、物質としての同一性(百年前からあり、百年後もありつづけるだろう「物」)ではなく、あくまでイメージとしての同一性としてある。写真ははじめからイメージ(写像)であって、物そのものではないのだから、はじめから「物」としての自然の流れの外にあって(時空の外にあって)、だからこそイメージの同一性は、「異なる眼差しが同じ物を見ている」ではなく、複数の眼差しが「同じ眼差し(同じ知覚=視覚像)」として重なるという効果を生む。写真は、そのようなやり方で、時間をかく乱させ、私の眼差しを、今、ここを超えて、私の外まで引っ張り出してゆくように思われる。
●浅見貴子の作品(だけ)を観るために、練馬区立美術館までゆく。「現代の水墨画2009」、今日が最終日。最終日になってしまったのは、今日、浅見さんによるアーティストトークが予定されていたから。しかし、昨日、浅見さんからメールがあって、今、ニューヨークにいて(ニューヨークで個展中)、風邪をひいてしまったので帰国出来ずアーティストトークは欠席するとのこと。インフルエンザではなくただの風邪だという診断は受けているが、この状態で無理して帰国しても成田で足止めの可能性が高いので、帰国を断念した、と。浅見さんにお会い出来ないのは残念だが、とにかく作品は観にゆく。
浅見さんの作品についてはこの日記でさんざん書いていて、改めて書くこともあまりないのだが、現代絵画がここまでの強さとリアリティを獲得出来ているということはほとんど奇蹟のようなことに思われる。絵画はもう終ったとか、現代における絵画の困難みたいな問題が偽の問題であることを、浅見さんの作品が成立していることが証明している。優れた絵画が現にここにあり、そしてそれは、過去の巨匠の作品ではなく、つい最近制作されたものなのだ。ロスコはまだ見てないけど、今、ロスコを観ることよりも、浅見貴子を観ることの方がずっと貴重な経験であるように思われる。浅見さんは去年一年間ニューヨークに滞在していて、日本でまとまった作品の展示は最近なくて、今回の展示も、四点展示されているなかで新作は一点だけだが、その「梅と楓図」という新作は、ほとんど混沌の一歩手前で、しかし決定的に混沌とは別種のなにものかが確実に掴まれていて、おなじ画家としては、すげえなあ、と、ため息をついてただ目を見張るしかないようなものだ。自分とたいして歳のかわらない人がこれを描いているのだ、という事実に打ちひしがれるのと同時に、それはおおきな希望なのだった。いや、ぼくもがんばります。
●美術館で画家の堀由樹子さんと偶然会う(そういえば去年の5月にも、川村記念美術館で堀さんとばったり会ったのだった)。堀さんに、「ちい散歩」で西八王子やってたよ、富士森公園とか歩いてた、と言われて、ああ、見逃した、と思った。それにしても、毎日のように歩いている場所を、わざわざテレビ画面で観たいと思うのはなぜなのか。