●夢のなかで自分が高校生であるということは、わりとよくある。しかしその時、多くの場合、一度高校を卒業した後、なぜなのか(同じ高校に)もう一度入学し直した高校生ということになっている。自分だけ三つくらい年上であり、ここでの生活は既に一度経験済みである。その事実を周囲に隠しているわけではないのだが、それをいちいち説明するのもめんどくさいと(自分にとってもそうだが、相手にとってもめんどうだろうと)感じている。この微妙に浮き上がった違和感(二度目であることや年齢差があることそのものというより、それを自分だけが知っていて周囲が知らないこと)が、ぼくの「高校生の夢」にはある。
●ラカンの『精神分析の四基本概念』に荘子の胡蝶の夢の話が出てくる。この話で、夢のなかで胡蝶である荘子は自らが胡蝶であることを疑わないのに、目が覚めた人間である荘子は自分が胡蝶なのか人間なのか(人間としての荘子が胡蝶の夢を見ているのか、胡蝶が人間、荘子になった夢を見ているのか)分からなくなる。それをラカンはだいたい次のように分析する。夢のなかで胡蝶である「私」は、自分自身として行動し、自分自身として語るが、「自分について」は語らない。一方、人間である「私」は、自分自身について語るのだが、自分自身の「位置(胡蝶か荘子か)」については、それを明確に決定できない。この話において、胡蝶(夢)と荘子(覚醒)とは決して対称的なものではなく相補的である。「自分自身として語る」場合、決して「自分自身について」語ることは出来ず、「自分自身について語る」場合、自分自身が置かれる「位置」を(自分では)決定することは出来ない(「私」を荘子として規定するのは他人であり、象徴的なものの網の目である)。私について語る私は、特定の位置を持つことができない。
《というのは夢のなかで、彼は誰かにとっての蝶々ではないからです。彼が他の人たちにとっての荘子となり、そして他の人たちの補虫網に捕らえられるのは彼が目覚めたときです。》
これを、オブジェクトレベル(胡蝶-夢)とメタレベル(荘子-現実)との相克とかいうような形に、単調に要約してはならないだろう。この話は、ラカンが視(視線)と眼差しとの違いについて語っている部分に登場する。私は一点だけから見ている(視線)のだが、私は、私の存在においてあらゆる点から見られている(眼差し)。そして、私以前に先行してある「眼差し」こそが、私の視線を可能にする。《世界はすべてを視ている者であって、露出症者ではないということです。(…)それはいわゆる覚醒状態においては眼差しの省略があるということにほかなりません。それが視ているということの省略だけでなく、「それが現れる」ということの省略があるのです。逆に夢の領域ではさまざまなイメージの特徴は「それが現れる」ということです。》
つまり、覚醒時に「私の視線」が可能になるのは、「それが視ている-眼差し」が省略されること(制限されること)によってである。逆に夢においてのイメージは「それが現れる(眼差しからのイメージ?)」としてあらわれるのだから「私の視点」は成立しない。ここに一つの逆説というか捻れがある。つまり、「私の視点」が成立する時、私には「私の位置」を確定することができない。一方、夢において「私の視点」が失われる時こそ「それ」が現れ、私は「私の位置」から行動し、語ることが出来る。
《荘子は目覚めると、むしろ蝶々の方が荘子になった夢を見ているのではないか、と訝ります。(…)実際、自身の同一性の何らかの根のところで自らを捉えたのは、彼が蝶々であったときでした。つまり実際、彼は蝶々の固有の色で描かれた蝶々であったから、いやむしろ本質においては今もそうであるからこそ自分自身を捉えることができたのです。それだからこそ、究極において彼は荘子なのです。》
ここでもう一回ねじれがある。(蝶々であり荘子である)彼は、蝶々であった時にこそ、より本質的に自分自身でありえた。だからこそ目覚めた時の(荘子である)彼は、今の自分は蝶々によって見られた夢にすぎないのではないかと実感する。荘子であり人である、「自分について」語るしかない「私」よりも、蝶々である「自分として」行動する「私」の方がよりリアルである、と。しかし、だからこそ、(荘子としての私とは決して一致しない場所にある)「蝶々の私」のなかにより本質的な「私」を捉える(認める)ことのできた「荘子の私」こそが、究極的には(あるいは現実的には)「彼」なのである、と。