●人間の身体の、形態としての(あるいは構造としての)左右対称性と、機能としての非対称性とのズレというものがある。目は二つあり、手と足は二本あるが、その機能は左右同じではなく、それぞれ利き目、利き手、利き足がある(利き耳というのはあるのだろうか?)。
目は二つあり、それぞれの位置から得られる視覚像は同じではないが、通常、二つの像が合成されたものを見ていて、そのズレは意識されない。そして、その合成は、左右の視覚像が平等に合成されるのではなく、一方の像が優位にあり、もう一方の像は、普段はその背後に隠れている。利き目から見える像がベースにあり、利き目ではない方はその補足として、利き目の視界の外にあるものをフォローする。つまり、二つの目の間には視差があるだけでなく、役割の非対称性がある。だから我々は、姿勢として世界と正対しているとしても、視覚はほんのわずか斜めを向いていると言える。平面である絵画を、その正面から見ているとしても、実はほんの僅か斜めから見ているのだ(だから、私と私の鏡像との関係は、左右逆転以上に複雑な捻れを含んでいるのではないか)。
これは視覚だけのことではない。例えば、目の前にある物を手に取ろうとする時、意識しなければ利き手でそれを取りにゆくだろう。そこで、体の利き手側が前に出て、その分、利き手ではない方の側は捻れてわずかに後方へと退く。これが意識しないで行われるということは、我々の世界に対する構えが、あらかじめ捻れを含んでいるということだろう。身体は、まっすぐに世界に向かって進むのではなく、まず一方の側から先にそちらへと向かってゆく。それは、意識以前の段階で世界は既に左右に色分けされているということだ。
たんじゅんではないのは、その捻れが、目から行動に入ってゆくのか、手から行動に入るのか、それとも足からなのかによって、一様ではないことだ。ぼくは、利き目は右、利き手は左、利き足は左であるから、目から世界へと入ってゆく時と、手や足から世界へ入ってゆく時とでは、その「先行する側」が異なる。つまり、世界に対して身体が捻れているだけでなく、身体そのものもまた一枚岩ではなく、その軸からの捻れを含む。だから、目が先行して動きが組織される時と、手が先行して動きが組織される時とでは、体全体の動きの連携、その軸や重心の移動や変化や傾きの連鎖が、それぞれ異なっているだろう。それは、先行する部位によって世界との関係の仕方、接触の仕方が異なる(その都度別様に組織され直す)ということだ。
(ということは、我々が一つ動くごとに、それとは逆の動きをしたかもしれない、潜在的な分身が生まれる、ということでは言えないだろうか。)
このような動きの組織のされ方は、勿論、たんに「私」の側だけから生まれるのではない。例えば、その場所がどの程度、どのように傾斜しているか、障害物がまわりにどのように配置されているのか、この場では何に対する配慮が優先されなければならないのか等によって異なってくる。あらかじめ身体の側にある「ある捻れ」はあくまで潜在的なもので、その場所の有り様に触発されることで、その都度異なった感覚の連携(場所との「捻れた」関係の仕方)を生み出すことになる。
(場所との関係で、その都度あらたな、ことなる分身が生まれる。)
身体が世界に対してもつ捻れ、その意味の不均一さが、意識されるよりも前に、あらかじめ構えとして存在しているということは、それは人が実際に動きを開始するよりも前に既に準備され、駆動しているということだ。つまり、実際に動かなくても、それより前に、動きのためのある感覚の連携が準備され、世界への捻れ、非対称性、非均一性が既に働き出しているという段階がある。それは、利き目でない方の視覚像が利き目の視覚増の背後にあって意識されないとしても、視覚のなかで隠されたまま常に機能しているのと同様に、その準備-待機状態は、身体全体の感覚の構成のなかで意識されないまま機能しているはずだと言えるだろう。
絵画は、人を動かさないままで、感覚の連携を動かし、実際に動くのと同等の経験をつくりだすとは言えないだろうか。それは確かに目から入ってくるものであるが、視覚性が重要なわけではない。むしろ、実際に動きが要請されることがないからこそ、生身の身体には困難なくらい複雑な「あり得ない動き」を準備-待機する「感覚の新たな連携」の状態をつくることが可能だと言えるのではないだろうか。ぼくにとって、セザンヌマティスを観るというのは、実際にそのような経験であるように思う。
(そこで(絵画と私の身体との間に)生まれる、あり得ない動きを準備する感覚の新たな連携は、新たな一つの身体であり、(小林正人が言うような)「絵画の子」という別の身体ですらあるだろう。)
そこで、(「絵画の子」を胚胎するする)絵画と人の身体とを媒介するのは、身体の、世界に対する左右の不均衡であり、軸の傾きやブレであり、重心の不安定な(だからこそ自由な)移動であり、つまり、身体があらかじめ持っている捻れと、そこに作用する重力との関係ということに、どうしてもなるような気がする。いや、もしかすると、左右の非対称性は人間にとって重力以上に根源的なものなのかもしれない。