●同じ視覚によるものでも、イメージの認知と空間の認知とでは全くちがう働きなのだと思う。イメージの認知はいわば無時間的であり、具体的な場所をもたず、スケールや距離感はほとんど関係ない。例えば人の顔を、それが顔であり、誰それの顔で、どのような表情であるかを認知するのは一瞬で足りるだろう。それに、その顔のイメージがビルの壁面いっぱいにまで拡大された看板に記されたものだろうと、小さな免許証につているような写真だろうと、目の前に現れた「実物」だろうと、その顔の認知にはあまり関係がない。イメージは、それを認識する者の身体的な関与をほとんど必要としない。(例えば、ある美しい異性のイメージが、性的な快楽を想起させるということがあるとする。しかしそれは恐らく、あるイメージを認知した後に、そのイメージと自身の身体との関わりが想起されるのであって、イメージの認知そのものとはまた別の働きであるのではないか。)対して、空間的な認知は、その空間内部で身体がどのように運動することが出来るかという、具体的な可能性と不可分であるだろう。実際に運動が行われないとしても、その時に運動を準備する、何かしらの待機の姿勢をとるための負荷がかかり、視覚的な刺激が身体全体に行き渡る感覚が生じる。例えば、目の前の林檎を取るためには、どれくらい手を伸ばせばよいのか、とか、足元の穴を避けるためには、どの程度迂回すればよいのか、など。つまり空間ははじめから身体との関わりによって把握される。自動車の運転手や飛行機のパイロットなどでも、彼がいま操縦している機械の具体的な大きさや性能との関わりで、それに見合った空間の認知がなされるだろう。空間とは、身体の運動可能性を具体的に限定し規制し方向づけするものとして把握されるのであって、それ自体非身体的なものであるイメージとは異なる。空間的な認知は、だから身体の運動や移動にともなって常に変化するもので、時間とともに新たなものとして生起しつづけるだろう。向こうから歩いてくる人物がいる時、それが誰で、どのような服装をしているのかという認知と、いまどのくらいの距離にあって、どのくらいまで近づいたら声をかけるべきかというタイミングを探ることとは、全く別のことだ。
●たんにひとつの静止した画像でしかない絵画が、人に長い時間かけて観ることを要求することが出来るとしたら、その画像が決して一挙に把握できるものではないからだろう。人は、そこに人物が描かれており、その人物が白いブラウスに緑のスカートをはいていることはほぼ一瞬にして理解するだろう。にもかかわらず、その画像が一体どのような仕組みで出来ているのかを一挙に把握することは出来ない。その時視線は、一枚の画面のなかを移動し、部分と部分とを比較し、それらの部分同士がどのような関係をもって組立られているのかを把握しようとする。しかし、ある程度把握できたと思っても、さらに視線を移動させたその先にある別の部分によって揺るがされ、その把握は解けて、また再び組み直されることになる。面白い絵を見ている時というのは、それを見つづけている限り、このような事が起きているということなのではないだろうか。(勿論、ただ視線がはぐらかされつづけていれば良いということではない。その、はぐらかされつづける時間のなかで、人にどのような経験をさせることが出来るかということこそが重要であるだろう。例えばエッシャーによる「だまし絵」など全く退屈である。)一枚の画面の上を視線が動きつづけ、動くたびに構造が揺らいで組み直されるとしたら、その人は一枚の平面の表面に目を滑らせているだけなのにもかかわらず、複数のイメージの重ね描きを目にし、同時に、ある迷宮のように入り組んだ空間の内部で身体を移動させながら彷徨っているのと同等な刺激を、ただ視覚だけから得ているということになるのではないだろうか。絵画的な空間の生成とは、たんに遠近法的な奥行きの構築でも、その否定としての平面化やそれ以外の秩序の模索でもなく、もっと複雑に合成された何かなのだ。一枚の画面のなかには、イメージと空間とが、複雑で危うい形で結びつけられ、解きほぐさている。そこでは決して、理想的なイメージと空間の統合が目指されているのではなくて、一枚一枚の作品にその都度あらわれる、新たな、面白い、ドキドキする、喜ばしい、スリリングな、緊張感あふれる、やばい、結びつきや解きほぐしが目指され、形作られているのだ。ぼくはこの記述を、マティスの絵画を想定しながら書いているのだが、例えばマティスによる「手」の描写を考えてみると、それをイメージとして見る限り、非常に不思議で不可解なものであり、単純に言えば稚拙にさえ見え、何故この状態で「完成」しているのか分からないのだが、しかしそれを空間的なものとして、時間とともに移ろう視線によって捉えた場合、何とも豊かで汲み尽くし難い表情があらわれてくるのだ。イメージとしての不思議さと、空間としての豊かさが不可分なものとして作り上げられていると思われる。
●絵画は、それを「物」として客観的にみた場合は、静止して既に固定されたものでしかないのだが、常に動きつづける視線によって捉えられる時、流動的で不均一で穴だらけの捉えがたいものとして、解けては組み直され、それを見ようとし把握しようとする視線の能動性によってはじめて浮かび上がる非物質的な幻影のようなものとなるだろう。もし、一枚の絵画が、かげろうのように非物質的なものとして立ち上がるとしたら、それが「純粋に視覚的なもの」だからではなく、イメージと空間という本来別々の、不純なものたちの捉えがたいほど複雑な結びつきによって出来ているからだろうと思う。そしてそれは、我々が実際に生きているアクチュアルな場としての3次元的な空間内では決してありえないような空間的、運動的な感覚を生起させることによって、それを見ている身体をも非物質的でヴァーチャルな、全く別の身体へと変質させる力をも持つ。例えば、デュシャンの言う「アンフラマンス(極薄)」な身体へと。