●朝はやく起きて、午前中いっぱい制作。まあまあの作品が一点できた(F40木製パネル)。昨日、一昨日の作品とあわせてみて、キャンバスや木製パネルにクレヨンで描く線描の仕事があたらしい段階に入ったことを確信する。うれしい。「夕日」シリーズはひきつづき暗中模索中。
●F40と言えばそれなりの大きさがある(100×80.4cm)けど、描いている時の画面との距離はとても近くて、完成まで一度も距離をとって確かめない。まるで棟方志功みたいに。絵画空間を把握し、動かすのは手であり、手の動きであり、手の動きを起点としたからだ全体の動きであり、動き(の重なり)によって頭のなかに構成される空間のイメージである。制作中、目は、その、手の「動き」を起動させるための刺激を外から得るという機能にほぼ限定される。つまり、画面はほとんど見られない。
とはいえ、あたらしい「Plants」のシリーズでは、線が複数の色をもつ。これだけのことで、画面は飛躍的に複雑になる。色彩の確認のために、目は、部分をチラ見する必要が生じる。それでも、色彩さえも、手によって、「動き」として把握しよう、というくらいの勢いでいく。空間を把握し構築するのはあくまで「動き」であり、色彩はそこにズレや落差を生むために導入される。とはいえ、色の(目に「触れる」)感触は、体の動きに影響を与えているだろう。
完成された作品は、勿論、距離を取って、目で判断される。目によって掴まれたのではなく、手の動きによって掴まれた空間を、目で見る。色彩はこの時、描いている最中とはまた違った、色彩本来の効果を(目に対して、結果として)もつことになる。もし上手くいっているのなら、手(動き)によって掴まれた絵画空間は、目にも秩序だったもの、複雑で、うつくしいものとして見えるだろう。そしてさらにそれが、動きでも視覚でもない、「別の感覚」のモンタージュにまで届きますように…。
●「Plants」のシリーズはそれでいくとして、「夕日」のシリーズは、それとは少し違った、もう少し積極的な「目」の介入の仕方が必要となるだろう。夕日というスケールは、身体の「動き」によっては捉えられないから。夕日はたんに視覚的現象ではない大きさと深さとを持つが、しかし人は、とりあえずは、そのスケールには視覚を通じてアクセスするしかない。目が捉える「視覚」以上のものを、絵具とキャンバスとの関係のなかに捉え直すこと。こういう時に参照できるのは、ぼくにとってはセザンヌだけだ。