●昨日、今日は、雨で、夕日は見られなかったので、「夕日」シリーズではなく「Plants」のシリーズの作品をつくった。キャンバスにクレヨンで描く絵。かなり良い作品が二点できた。F30とF40。うれしい。「夕日」の方は、まだ先が見えず。雨のなかキャンバスを買いに行ったら、長年通った画材屋が閉店していた。
●昨日の日記で言いたかったことは、要するに、絵画においては、筆触も色彩も線も、ある抽象性のなかに置かれてあり、そこにおいて機能する、というだけのことで、絵画の、世界から半歩身を引くような、あるいは数ミリ浮き上がっているかのような、抽象性の感覚って、とても不思議な感じのするものだ、ということを絵を描きながら思ったというわけだが、それが、あんな大袈裟な物言いになってしまって、何か恥ずかしい(描いている時、この抽象性の感触をちらっとでも見失うと、作品は混沌と化してしまう)。
フリードのリテラリズム批判は、理屈としては苦しいというか、無理矢理っぽいし破綻したものだが(岡崎乾二郎が指摘する通り、「没入」というのは、フリードが言うのとは逆の効果をもたらしてしまうと思う)、感覚としてはすごくよく分かるのは、フリードがこだわっているのも、作品の抽象性の感触だからだと思う。
あるいは、スタインバーグがフラットベッドと言ったラウシェンバーグの作品にだって、実際に作品を観れば、そこにはたんに物やデータが散乱した作業台などではない、絵画としての抽象性の感覚が宿っている。そもそもコンバインという行為が成り立つのも、そこに抽象的な場が生じているからだ。というか、水平な作業台(フラットベッド)という場が(コンセプトが)あらかじめあってそこに物やデータが集められるのではなく、物質を組み合わせることによって、その組み合わせ方によって「(作業台であるかのような)抽象的な場」をモンタージュすることこそが、コンバインという行為-制作だったのだ。いろいろ組み合わせを試してみて、「(作品として)あっ、成り立った」と思った時(作家が、というだけでなく、観者が)はじめて、そのような場(抽象性、表現性)が開かれ、成立する。
六十年代、七十年代の日本現代美術においては、この抽象性は、(現在から振り返ると適当な用語とはまるで思えないが)「イリュージョン」という言い方で、主に否定的なものとして捉えられていた。作品からイリュージョンを排除する、みたいな文脈で。しかし、作品とはつまりはイリュージョンのことなので、「イリュージョン/アンチ・イリュージョン」という問題設定自体が間違っていたとしか思えない。問題はイリュージョンの質であり、その組成であって、つまり、その深さ、広がり、射程、複雑さ、強度、等々なのだ。リテラルな「物質」を提示するような作品も実は、それが「作品」として提示される限り「リテラルに見える」という(単純な)イリュージョン(効果)を発するように構成・演出・配置されているに過ぎない。まあそれも、今から振り返るから言える、ということだけど。
●この抽象性は、なにも絵画に限ったことではなく、「作品」と呼ばれるもの全般に関わってくるように思われる。作品とは、抽象的な場で作動する機械のようなものだ。作品は、抽象的な場で何かしらの表現を発生させるもののことだとして、それだけではなく、その表現を可能にする抽象的な場そのものもまた、作品それ自身によって生み出されなくてはならないだろう。難しいのは、表現そのものよりも、そのような表現-内容を可能にするための場(地平)そのものを生み出すことの方だ。生み出す、というのが言い過ぎなら、探り出されなければならないだろう、と言い換えてもよい。その作品がつくられるより以前に、その作品のために用意され、約束されている場などありはしないのだから(こういうことを言うとすぐに「歴史的にみてホワイトキューブがなんたら」とか「アートの文脈では」「アートのアーキテクチャが」とか、すぐ言い出す人がいてうんざりするのだが、そういう議論に意味がないなどとは勿論思わないが、ここで言ってるのはそんなことじゃない、そんなことは「現実」の強いる様々な条件のなかの一部を占めるに過ぎない、少なくともそういう「外から攻めるような言い方」からはポジティブな作品-抽象性は生まれないと思う、確かにそれは、現実という条件の無視出来なくて小さくはない「一部」を占めるものではあるのだが)。
抽象的な場と、その場によって実現される表現のことを、とりあえずフィクションと言い換えることも出来ると思う。フィクションを成立させるための抽象的な場は、そのフィクションを立ち上げる度に、その場で、リテラルな現実のなかで(それを「条件」として)、しかしフィクションそのものの力によって、その都度仮構されなくてはならない。だからフィクションは常に、仮の、かよわい地盤しか持てない。フィクションは常に、何の保証もないまま現実のなかで建てられ、その外側の現実と通底しているので、自分自身のための強固な地盤-根拠を固めることは出来ない(それをしようとした途端に間違う)。作家は常に、その「無根拠さ」の前で途方に暮れる。しかし実は、その不確かで抽象的な場、フィクションそのものこそが、人間にとっての「現実の設立」を可能にしているものなのではないだろうか。
(条件としての現実と、そこから立ち上がるフィクションとの間にあって、フィクションの立ち上げを可能にする抽象的な場、その不可視の層ことを、ドゥルーズだったら集団的アレンジメントと、フーコーだったら言表秩序と、言うかもしれない、とか。)
●ああ、でも、こうやって書き連ねてゆくと、また、最初にあった、線を引く時、筆を入れる時、色を置く時に、その都度、具体的に感じている「抽象性」の感触から、どんどん離れていってしまうように思う。けっきょくまた、俯瞰的で大袈裟な言い方になってしまった。