2019-03-30

●『この空の花 長岡花火物語』(大林宣彦)をDVDで観た。改めて観直してみると、思いの外きつかった。最初の一時間くらいはとても面白いと思っていたのだけど、その後の一時間半は、けっこうダレている感じもあったし、いくらなんでも説教臭すぎるというか、一方的にメッセージを押しつけてきすぎる感じがあった。自分の言いたいことだけを一方的に話し続ける人の話を聞いているような感じ。とはいえ、この押しの強さがあってはじめて、これ以降の作品が可能になっているのだなあとも思った。

この映画には、『プライベートライアン』や『ダンケルク』のような高度な再現性があるわけでもなく、『ヒロシマ・モナムール』のような、表象不可能性という倫理との対峙もない。この映画の原理は、あらゆるものごとは交換可能であり、あらゆるものごとは他の何かの代理である、という思想だと思う。ある何かが常に別の何かの代理であることによって、互いが互いを表現し合い、故に、あらゆるものごとは繋がっている、と。フィクションの意味は、代理と代理とが互いを映し合う場であることにある。だからこそ、俳優がさも実際の体験者であるかのごとく語ってみせてもオーケーなのだし、風景も空襲も、はめ込み合成であることがミエミエである画面で表せばそれで充分なのだ。

(空襲で左腕を失った人物を演じている坂田明のシャツの内側には、実際には左腕があることはミエミエなのだが、それでいいのだし、むしろ、ミエミエである---代理であることが明確である---からこそいいのだ、と。)

何かは常に別の何かの代理であり、別の何かを表現(暗示)する。東日本大震災の直後につくられたこの映画の舞台が、中越地震の被災地である長岡であり、そして長岡はかつて、長崎に投下された原爆「ファットマン」と同型で、プルトニウムの代わりに火薬を詰め込んだ模擬原爆(パンプキン)が試験的に投下された土地である。その長岡に、長崎出身の女性記者がやってくる。長岡はかつての福島でもあり、長岡は可能性として長崎であったかもしれないがたまたまそうでなかった土地でもある。そのような形で、長岡と福島と長崎が互いを映し合い、表現し合う。この映画では、様々な「歴史的事実」が語られ、それらがあたかも互いが互いの代理であり、表現であるかのようにつきあわせられる(たとえば京都もまた、原爆投下候補地の一つだった)。歴史的事実が、次々と連鎖的に関係づけられ、時空をこえた切り子面的な相互反映が形作られる。

(花火と空襲とはそっくりであり、その類似によって互いが互いを代理的に表現し合うが、もう一方で、花火は空襲とはまったくことなる意味をもつ。そのようにして、代理的反映は、類似と差異との両方を際立たせる。)

フィクションは、あるいは映画という媒体は、それらをいくらでもつなぎ合わせ、関係づけを増殖させることが出来る。その手つき自体は恣意的なものにすぎないかもしれない。しかし、それらをつながずにはいられない、外的な力として、オブセッションとして、戦争や地震原発(あるいは死や少女への幻想)という「現実」がある。逆に言えば、現実こそが、異なるものごとの相互代理的な反映を強いる。このような相互反映の力は、時間と空間の秩序をこえる。われわれは、どのような現実もフィクション化せずにはいられない。

おそらく、以上のような思想を、この映画(これ以降の大林作品)は端的に体現している。その意味でアンチリアリズムであろう。そして、そのようにしてつくられた作品は、(明快で押しつけがましくさえ感じられる「メッセージ」とは裏腹に)それ自身の姿として---生も死も、過去も現在も溶け合う---一種の冥界の表現のようなものに近づいていく。これをまるごと受け入れ、無批判に肯定してよいのかどうかは分からない。しかしここには、真剣に考えるに足りるものが示されていると思う。