2020-09-11

新文芸座による24時間限定「上映同時間」配信で、ずっと気になっていた『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)をようやく観た。これはすごかった。興奮した。

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演劇でもなく、映画でもない、その間のどこでもないところに、非常に濃密なフィクションがたちあがる。濃厚というのは、そこに「ある」とは言えないが、「ない」というわけでもない(直接的に「これ」と示されているわけではない)、過去や無意識といった背景(文脈)が、濃厚な霧のように漂い、登場人物たちに絡みつき、渦巻くように相互に作用し合っていているのが目に見えるようにさえ感じられた、ということだ。

声がたちあがり、視線がたちあがり、表情がたちあがる。それらにより、同じセリフが、同じ場面が、その都度その都度で改めて、何度もたちあがる。たとえば、この映画で最も多く繰り返される場面で、昔荒れていたが今はそうでもないという中学にそれでもまだあるといういじめが話題にあがった時に、澁谷麻美がみせる、とまどいのような、逡巡のような、「間」が生む表情。繰り返される度に微妙に異なった表情となるが、この「間」の背景には明らかに非常に重たい文脈が存在すると感じられる。その文脈について作中で説明されることはない。しかし、場面が、「間」が、繰り返されることで、具体的には知らされないその背景に、しっかりとした手触りのある存在感が生まれる。あるいは、登場する最初のカットを観た瞬間に(あるいは最初の発声を聴いた瞬間に)、この人は抑圧的な傾向がある人物に違いないという直観を抱かせるような、分厚い背景を既に纏っている足立智充の佇まい。映画がすすむにつれて最初の直観の正しさを徐々に確認していくことになるのだが、直観に対する確信が深まっていく過程はそのまま、最初はそうは見えなかった笠島智が実はかなり追い詰められていたのだということを(じわじわと)知る過程でもある。

この映画が面白いのは、(ある完成形に向けた)リハーサルを撮影しているようには、はじめからまったく見えないというところではないか。リハーサルではなく、その都度その都度、最もミニマムな形でフィクションがたちあがる。そしてまた、切り取り方を変えた同じフィクションの異なるバージョンがたちあがる。行っては戻り、行っては戻りしながら、表現の力が蓄積され、あるところで不意を突くようにフィクションに展開がみられる。ミニマムな形での、同じフィクションの異なるバージョンが、互いに互いを幾重にも映し合うことで立体化するのは、そのフィクションによって語られることがらだけでなく、語られることのないフィクションの背景(文脈・地)でもある。断片化というよりフレームの切り直し、繰り返しというより複数のフレームの重ね合わせ、が、背景(地)を濃厚にしているように感じられる。見えない地が見えないまま折り重なって厚くなる。

フレームの切り直しと、切り直された複数のフレームの重ね合わせによって、もともと「その場面」が持っていた可能性が(並列化されるというよりも)、煮込まれたように凝集されていっていると感じられた。

(リヴェットの冗長的な面白さとはまったく似ていないと思った。)

推測でしかないが、おそらく最初に濃密なテキスト(脚本)があって、そのテキストの潜在的な力を最も多く引き出し、強く表現するにはどうすればよいのかという思考によって、このような形式が生まれたのではないだろうか。映画の後半に、テキストをはじめから順に読み下している場面があって、それによって初めて、断片化され繰り返されていた場面が、時系列としてどのように並んでいたのかを知ることが出来る。そして、テキストの読み下し場面を観て思うのは、もともとあったテキストが思いの外、理路整然と、別の言い方をすると段取り的、説明的な形できっちり書かれていたのだなということだ。たとえば、笠島智が追込まれているという事実が「ファミレスでの喫煙」によって分かりやすく表現されている。そして思うのは、そのままの形で演出・上演されていたとしてもそれなりにはよい作品になっただろうが、しかし、そうではなく「今あるような形」でつくられた方が、このテキストが本来孕んでいた可能性をずっと強く明確な形で表現できているのだという納得だ。

(テキストを読み下す場面で重要なのは、フィクションの設定上では、その場面ではそこにいないはずの人物がそこにいるということではないか。特に、澁谷麻美と笠島智の二人だけの場面で、ずっと足立智充のアップが映し出されているところ、など。)

この映画の多くの場面が、リハーサル室かスタジオのような場所で演じられ、撮影されている。しかし時折、この映画が示す物語の舞台となった場所で撮影されたであろう場面が挟まれる。これにより、白いタイルに外からの光が反射しているというような、切断されたままでの反映が起こる。そしてこの切断されたままの反映は、映画の中程で、それまで何度も繰り返された澁谷麻美と足立智充が言い争う場面が改めて実景のなかで演じられる時に、不意に折り重なる。

冒頭の取り調べの場面と、終幕の手紙を読む場面は、スタジオのような抽象的な場所でもなく、実景でもない、(通常のフィクションであるかのような)取調室風の場所で演じられ、撮影されている。それは、これらの場面が「この映画の時間・空間」の内にあるというより、外枠のようにしてあるということだろうか。

最初に書いたが、ここではフィクションが、演劇でもなく、映画でもない、その間のどこでもないところでたちあがっているように感じられるということは、この映画のリアリティのあり様としてとても重要なことではないかと思う。そして、この映画と、『夏の娘たち ひめごと』(堀禎一)や『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(黒川幸則)とが、同じ撮影者によって撮影されているということも重要であるように思う。