●『この世界の片隅に』をようやく観た。地元のシネコンで、上映時間五分前くらいに入ったら客が誰もいなかった。客の少ない映画館で映画を観るのはよくあるけど、さすがに一人で、ということは今までにない。このままだと貸し切り状態で観ることになるのかとちょっとドキドキしたが、予告編がはじまって五分くらいして中年の夫婦らしいカップルが一組入ってきて三人になった。ほっとしたの半分、がっかり半分。
●こんなに俯瞰の構図の多い映画は珍しい。そして、俯瞰の多い監督は三流だと言われる。しかしこれは勿論意図的なものだろう。映画としての運動感のようなものは抑制して、ジオラマ的なスケール感や距離感をつくっているのだろうと思う。それはこの作品が、人物に寄り添うのでもなく、歴史として引いて見るのでもなく、近いけどやや外側の視点から観察する、という距離感を意識しているからではないかと思った。
この作品はリアルな話というより、精巧な模型をつくる感じなのだと思う。模型は、背景はリアルだけど人物はあまりリアルではない。すずさんのような人は実際にはなかなかいないと思うし、それに、この作品には「嫌な奴」が一人も出てこない。そんなことはないはずなので、その意味でも人物はリアルではない。実在するモデルがいたとしても、それもまた模型として再現されている、ということだろうか。これは批判しているのではなく、そのようにつくられている、ということだ。嫌な奴は描かない、すべての人をいい人として解釈する、というような。
しかしこの映画は、ぼくにはちょっとトラウマ的経験というくらい強く迫る感覚があった。おそらく、デフォルトとしてはちょっと俯瞰ぎみの観察モードなのだけど、そこから前触れもなくいきなり迫ってくるものがあるので、防御の姿勢のとりようがない。たとえば空襲の場面での音の恐ろしさ。それにはこの映画の世界の外からやってきて世界に穴をあけるような恐ろしさがある。あるいは、空襲の場面で義父がいきなり死んでしまう(実は眠っているだけなのだが)場面のいきなりさ。え、この映画ってそういう風に人が死ぬタイプのやつだっけ、みたいなショックが来る。そうか、人はこのように死ぬのか、と愕然とする。こういうのがじわじわ積み重なって、後半はもう悪い予感しかしない。
義父は、二度死に、二度生き返る。空襲の後、家に帰って来なかった義父だが、実は海軍の病院に収容されていることが知らされる。ハルミ(義姉の娘)をつれて呉から下関に疎開しようとするケイコ(義姉)だが、切符売り場は長蛇の列だ。そこで、ケイコが列に並び、すずとハルミの二人で義父のお見舞いに行くことになる。これは明らかに死亡フラグだ、よくないことが起るに違いない。ぼくはこの時点でもうかなりびくびくしている。案の定空襲だ。頼むから何も起こらないでくれと願うぼくはフィクションであることを忘れている。なんとか無事にやり過ごせたようだ。安堵するのもつかの間、こんどは時限爆弾がどうのとか言ってる。そういう物騒な単語は死亡フラグになるからやめてくれ、とぼくは車の中から注意喚起するおっさんにキレそうになる。案の定すずは、その言葉から思い出さなくてもいい事を思い出してしまう。だめだ、思い出すな、それは最強の死亡フラグになる。ああ。なんてことだ、よりによってこんなことが起るのか、と呆然となるぼくはフィクションであることを忘れている。こんなことが起きてしまう「この世界」にガチで恐怖を感じ、そして、登場人物をこんな目にあわせる作者に怒りを感じている。
それからしばらく、もうどうでもいいやというような無気力な感じで事の推移を眺めていた。辛くて耐え難いので感覚のスイッチを切ったような感じ。そして、この後さらに広島に原爆が落ちるのか、と思って、逆にそのことで、これがフィクションであるという距離感を取り戻す。そうか、ぼくは既に結果を先取りしてしまっているのか、と。
おそらく、この作品のジオラマ的な視点の淡々とした観察と、すずの感情とは釣り合っていない。淡々と、しかし丁寧に描かれていくすずの日常生活は、その背後にあるすずの感情をほとんど表現していない。表現していないということは、すず自身も気づいていないということだろう。ふわふわと生きているすずは、自分の感情を自分自身も理解していないことに気づいていない(ハゲができるほど精神的負担が大きいのに、作品の表面上ではそうは見えない)。しかし、様々な理不尽な出来事に見舞われることで、自分の背後に自分でも意識できていない激しい感情があることに気づいてしまう。しかしその存在に気づいても、その感情はすず自身にも完全には理解されないし、十全には表現もされない。でも、このギャップの表れそのものが、その表現となる。この「釣り合っていない」という構造が、この作品の表現の強さとして出ていると思う。
この作品のリアルさは、精巧な模型としてのリアルさというより、精巧な模型によっては描かれないものが他にあるということを強く匂わせることによるのではないか。たとえば、貴重な砂糖を水没させてしまったすずは、闇市に砂糖を買いに行く。配給の品がどんどん貧しくなってゆくなか、闇市には物があふれて別世界ようにみえる。つまり、戦時下という国家の統制の強い時代でも、「別の経済」が存在していて、それが半ば公認されているという事実が垣間見せられる。あるいは、空襲の最中に自軍の飛行機の性能の向上を賛美する義父からは、「ここ」である同じ家から通われているのに、まったく別である職場(工場)の価値体系を垣間見せる。あるいは妹のスミの腕や、集会所の前の兵士の死は、「ここ」の空爆とは違う広島での原爆投下を表現している。あるいは骨壺の中の石は、「ここ」とはまったく別の環境での兄の死を表現する。あるいは水原の存在は、「いま・ここ」とはちがったかもしれない別のすずの生活の可能性を表現する。あるいは炊き出しのアメリカ兵残飯スープは、アメリカ兵が「ここ」ではとうてい食べられない別の「美味しいもの」を食べていることを表現する。そして、「ここ」とは違う広島で、「すず」とは違う「右手を失った母」を失った子供が、別の「失われた右手」の主であるすずの元へやってくる。すずはこの子供の母ではないし、この子供はハルミではないが、失われた右手と失われたハルミが二人を媒介する。「ここ」からは「そこ」が失われて(切り離されて)しまっている。しかし、「ここ」と「そこ」はどちらもこの世界の片隅であり、離れていると同時にどこかで繋がることもある。
この作品は予想以上に「マイマイ新子」と似ているところが多い。すずと新子は似たところのある人物だし(すずのスケッチと新子の妄想など)、すずと---夫ではなく---水原の関係は、新子とタツヨシの関係とそっくりだ。新子もすずも、妄想やスケッチという虚構を媒介とすることで現実と関係する。虚構とは、「ここ」ではない場所を構想することであり、それによって「ここ」と関係することだろう。しかし、タツヨシの父の死や、爆弾で右手を失うことは、彼女たちの使い得る虚構の限界を超えた強さで媒介を破壊する。虚構には適応範囲の限界があり、現実には限界がない。故に、現実が虚構の構えを壊し、不可能にすることがある。しかしそれでも、現実のなかから媒介として使用可能な道具を見つけ出し、再び、三度、別の虚構を立ち上げて、それによって現実を生きるしかないのだろう。これは、シンボルグラウンディングの問題ではないか。