2020-02-25

●『映像研には手を出すな!』、8話。今回のキーポイントは「箸の持ち方」だろう(実はぼくも水崎氏と同じ交差箸だ)。今回において、アニメ内現実とアニメ内アニメ(虚構)との境界を踏み越えているものは、水崎氏の(間違った)箸の持ち方であり、水崎氏の(特徴的な)走り方であり、水崎氏の(記憶にのこっている)お茶の飛ばし方だ。それは、現実のなかに虚構が混じり込むという形ではなく、虚構=作品のなかに(絵を描いている人の)現実-身体が入り込むという形であらわれている。だからここでは、以前の生徒会の予算審議の時のような、スクリーンから戦車が突出してきたり、風が吹き出てくるといったような、紋切り型で退屈な(虚実の踏み越えの)表現はなくてもいいことになる(なくてよかったとほっとした)。

また、映像研の三人にとって、文化祭という場に、(「ビューティフルドリーマー」的な)祝祭感という要素はまったくない。彼女たちは祝祭のなかにいない。彼女たちの目的は、作品を完成させることであり、その完成した作品を多くの人に観せることで、次に、今よりもよりよい条件の下で作品をつくることを可能とすることだ。彼女たちにとって「目的」は作品、あるいは制作であって、文化祭というお祭りはそのための「手段」でしかない。その意味で彼女たちは作品(制作)に束縛された「作品の犬」であり、終わらない文化祭前日を指向する「ビューティフルドリーマー」の世界の住人とは隔絶されている。

一方、「ビューティフルドリーマー」の世界に住んでいるのはロボ研の人たちだ。ロボ研の人たちには、観客動員のためのサポートや宣伝、場の盛り上げというミッションが与えられている。しかし彼らにとって重要なのは、ミッションの実現そのものであるより、ミッションに向けて行為をすること(その行為の過程を経験すること)であり、文化祭というお祭りのなかで、ミッションを遂行するというプロセスを通じて「ごっこ遊び(虚構)」を演じることの方にある。ロボ研の人たちにとっては、プロセスそのものが目的であり、つまり、プロセス=目的=遊戯(虚構)である。勿論彼らは本気でミッションを遂行するだろうが、その本気の遂行そのものが遊戯として成立する。この遊戯は、文化祭という場を得ることで最高潮に達する。

映像研の人たちにとって、目的=遊戯は制作そのものであって、その背後に文化祭のような祝祭的時空は必要とされない。逆に言えば、彼女たちには「祝祭」はなく、常にいつでも「制作」に拘束されつづけている。虚構(虚構と現実とが接し、境を越え、双方が織り込まれるような場所)は、制作・作品のなかにしかない。

一方に、目的はあくまで「制作」であり、文化祭(祝祭)は「手段」でしかないという映像研の人たちがいて、もう一方に、目的はあくまで「プロセス(祝祭空間を生ききること)」であり、具体的なミッションはプロセスを遊戯化(祝祭化)するための手段であるというロボ研の人たちがいる。これを、ポイエーシスとブラクシスの違いといっていいのかは分からないが。目的と手段において真逆のあり方をしているといえるこの二つの団体が、アニメ作品の上映を成功させるために、真逆の方向へとクロスするようにありつつも、双方が結果として共働している。まさにこの、異質なものがクロスする構造(と動き)が面白かった。