名古屋市立大学芸術工学部、小鷹研究室による「からだは戦場だよ 2017」の記録映像。そうとうに強力な感じ。
https://www.youtube.com/watch?v=izgqGGu9toI
●この展示(?)に関する小鷹研理による総括。「展示の記録と周辺|からだは戦場だよ 2017」
http://labrec.kenrikodaka.com/2017/04/03/bfield2017acv/
このテキストで、エキソ二モの作品に触れることから導き出される、下のような見解はとても重要だと思う。
《おそらく、美術というのは、多かれ少なかれ、現実と虚構との(本来)抜き差しならない関係を、それぞれの仕方で扱おうとするものであるからして、ポスト・インターネットが、美術の歴史のなかで、何か特別に新しい視座を提供しているというよりは、そういった美術の伝統を、新しい道具を使って、正しく継承しているという言い方が正確なのかもしれない。そのうえで、僕がこの一連のムーブメントに関心を持つのは、ポスト・インターネットが、美術が伝統的に題材にしてきたであろう諸問題を、非常にわかりやすいかたちで鑑賞者に提示してくれているようなところがあって、結果的に、美術という難解な装置の、優れたメタファーとして機能している(その意味では、美術であると同時にメタ美術でもあるような)、と、少なくとも僕にとってはそんな魅力がある。》
《この「わかりやすい」という印象は、作品の受容において、体感レベルの手応えが果たす役割が大きくなっていること、とも関係している。つまり、(美術のコンテクストを知っていようが知っていまいが発動するような)物理空間とディスプレイ内空間との区別が失効するような錯覚が現に生じること、そのことそのものが作品の価値の重要な側面を構成してしまうこと。これは、ある意味では、美術が自然科学の言語で記述されるような事態を指していることになるんだけど、逆から見れば、自然科学(および工学)が、従来であれば美術にしか処理できなかった主観世界の諸相にメスを入れるようになってきたという側面もあるわけで、つまり、科学の方から美術に歩み寄っているという見方もできる。》
このような、経験を直接つくりだすテクノロジーそのものであるような「作品」の「わかりやすさ」をどう考えるのか。コンテクストを重視する従来通りのアートの立場からみれは、これは、作品と参加型アトラクションとの混同であり、美術史や教養を無化する、知的な退廃と映るかもしれない。しかし、この「わかりやすさ」は、現実と虚構との「抜き差しならなさ」そのものの露呈であり、それは「気持ち悪さ」として立ち現われる。この「気持ち悪さ」に立ち会うことそれ自体が知性なのではないかと思う。
たまたま今日みたpeirce_botに、次のようなツイ―トがあった。《知性は習慣の可塑性に存する。》
https://twitter.com/peirce_bot/status/849381283746676736
これらの装置によって経験される「気持ち悪さ」は、現実と虚構との抜き差しならなさの露呈であり、それはつまり、現実と虚構との関係の可塑性を示すエッジの部分を探り当てているからこそ生じるものだと思われる。それは、我々がどのような(リアルな)錯覚のなかを生きているのかということであり、同時に、どのような別の(リアルな)錯覚が可能なのかを探るものでもあると思う。身体とは、仮構されたリアルな錯覚の組み合わせで構築されているとすれば、それは、今あるものとは別様なリアルな錯覚として、別の身体を組み直すことも可能だということになる。
じゃあ、身体を汲み直すことに何の意味があるのか。それはなにより、面白いし、ヤバいという意味がある、ということだと思う。知性というのはいってみれば、我々はどの程度可塑的で柔軟であり得るのかという遊戯を楽しむ(味わう)ことであり、可塑的であり得ることそのものを喜びと感じられることそのものだと思う(しかしその喜びは、底知れない不安や恐怖とも結びついていて、つまりヤバいのだけど)。
この感じは、本来、あらゆる芸術の起点としてあるものだと思うのだけど。
だけど、それが「Recursive Function Space」になると、もう「分かりやすい」とはとても言えない、きわめて複雑で錯綜した経験になるのではないかと予想される。ここで再びpeirce_botを引用する。《人間が同時に二つの場所に存在することはできないという、惨めで物質主義的で野蛮な考えがある。あたかも人間が「もの」であると!》
https://twitter.com/peirce_bot/status/846603055474733056
《「外部から自分を見る」ということにすごく興味があって、ただ認知科学的な観点からすると、鏡やらモニタを通して見る自分に対するリアリティーの”軋み”は、rubber hand illusionでターゲットとなっているような深いレベル(身体所有感)の変調作用からは程遠い。自分自身(のようなもの)と対面状況となったときに、自分がここにいると同時に、そちら側にもいるというような同時性にかかわるリアリティーを、どのような尺度で計量するのか、その方法論については、実は、実験科学の分野でも未だ十分に確立されているとはいえない。》
《自分がここにいると同時に、虚像の側にもあるというような同時性」にかかわる感覚。この深遠なるリアリティーを解く鍵は、やはり、主客の方向性が極めて錯綜する幽体離脱にこそ求められるべきである。そのような状況では、幽体する視点だけを借りて、オリジナルの自分の肉体を眺める経験(客体→主体)と、肉体は相変わらず視点の側にありつつも、モニタ上の自分を眺めるような経験(主体→客体)とが、ないまぜに共存するような事態が発生している(にちがいない)。こういう事態に際してはじめて、自分の<自分性>を深いところで支えている何かしらにメスが入り、その副作用として、あるいはその補償として「不安」が生じる。》
《虚構が現実に擬態することで、目の前にある現実が括弧つきの現実へと後退する作用を、『擬態と後退の法則』と名付けてみた。》
●ところで、このテキストで紹介されている、ジャルジャルの二つのコント(「一人漫才」「変な奴」)が興味深い。
http://www.dailymotion.com/video/x536461
https://www.youtube.com/watch?v=J8ssZzUX2xE
前者(一人漫才)は、メタレベルが次々と増殖(無限後退)してゆく、マトリョーシカ的な入れ子構造だとすると、後者(変な奴)は、コントという枠のなかにいる人物(ボケ)が、ボケとして機能すべき重要なタイミングで繰り返しフレーズしてしまうことで、一種の空白をつくりだし、この人物の示す空白がコントの枠内にあるコントの外部になってしまうことで、反転し、空白の方が外からコントを枠づけするフレームになる。ここでは、袋をひっくり返すような、袋詰め的な入れ子構造がある。この両方を同じコンビがやっているところが面白い。