●『モノたちの宇宙』(スティーヴン・シャビロ)の序章に書かれる次の部分はぼく自身の現在の考えとほとんど一致する。
《偉大な詩人であるステファン・マラルメはかつて「つまるところ万事は美学と経済学につきる」と書きつけた。ぼくはこの箴言(アフォリズム)を存在論的な真理にする(この本ではこのことを証明する努力はしないけど)。倫理学政治学、認識論はすべて経済という「最終審級」によって決定されている。つまり、人間の用語では生産力や生産関係を通して決定されており、宇宙論的な用語で言えば、量子論的場やエネルギーの流れ、エントロピーの課程といった「一般経済」によって決定されているのである。しかし、こうした全てとならんで、これは---それと共存するが還元することはできない---内的体験、つまり美的なものの領域なのだ。「様々な主体の経験をのぞけば---ホワイトヘッドは書いている---何もない、何もない、何もないまるはだかの無しかありえない」(…)グレアム・ハーマンの場合がそうであるように、また彼とは異なった理由によるものではあるが、ぼくも「美学が第一哲学である」という地点に辿り着いたのである。》
とはいえ、このような「美学」に対する懐疑もある。それは現在のテクノロジー(ビッグデータが可能にする統計のおそるべき力や、「自然現象」としてのディープラーニング)からくるものだ。たとえば、矢野和男や前野隆司などの提唱する幸福学というのがある。これは、内的体験すらも定量的に記述し、計測し、技術的に操作・制御できるという立場だといえる。内的体験もまた、計量し操作できる(物理として、つまり「一般経済」として扱える)ものだから、それは「美」ではなく「幸福」と呼ばれるのだろう。『データの見えざる手』(矢野和男)などを読むと、この立場が非常に強力であることが分かるし、『明日、機械がヒトになる』(海猫沢めろん)のインタビューを読むと、松尾豊や矢野和男、前野隆司といった人たちは、科学を通して、意識は幻想であり「わたし」など存在しないという、悟りの境地に達しているように感じられる。
ティーヴン・シャピロは、この『モノたちの宇宙』という本では経済学や力学の真理は脇に置き、経験における重要な真理に焦点を絞るのだ、とする。しかし、「一般経済」を脇に置いてそれをすることが、本当に可能なのだろうかという疑問はある。
●上の話とも関係あるかもしれない。別の検索をしていてたまたま見つけたのだけど、知花樹理という人のツイッタ―での発言が興味深い。研究者のようだけど、具体的にどんな研究をしているのかはツイッタ―では分からない。名前も、おそらく本名ではない(検索してもツイッタ―の発言しか出てこない)。
https://twitter.com/chibana_zyuri
《研究でも人生でも、虚構と現実をつなぐこと・両方も大事にしないといけないと思う。科学をやっている人の中には、現実のものを調べているのに、なぜ虚構を持ち込む必要があるのか分からないという人がいる。それは科学の最終産物が、この世界の仕組みだけでなく知識側の制約にも依存するからである。》
《人生の不幸感はこの世界の物や出来事だけに依存するのではなく、私たちの中に備わっている非合理だが避けられない感じ方にも依存しているから、それらはすでに物語や神話などの形になっていることが多い。こういうものも考えないと世界をコントロール可能にしても自らの不幸な気分からは逃れられない。》
《今書いている論文(いま見直し&修正して第三稿目。修正第七稿まで行ったら英文校閲→サブミット)、シミュレーションモデルに虚構的な部分を積極的に導入し現実的な部分と虚構的な部分を上手く繋ぐことが、モデルのあらゆる面に現実性を求めることよりも、目的によっては役立つことを示している。》
《現実世界の事を上手くやる(知るとか制御するとか)ためには、現実世界だけを考えてればいいというのは間違っている。虚構と現実が綺麗に架橋されることで、最大の力を引き出すことが出来る。虚構についての知識がまだ足りてない。虚構自体に比較的シンプルなルールがあることが今回の研究で分かった。》