2021-12-27

●『ワンダーウォール 劇場版』をアマゾンプライムで観ていたのだが、「え、まさかここで終わりじゃないよね」と思ったところで終わっていて拍子抜けした。この終わり方はいくらなんでも「投げっぱなし」なのではないかと思った。

このドラマは京大吉田寮の取り壊しを巡る寮生と大学との対立を題材としていて、それはこのドラマがつくられた時点で(そしておそらく現在も)決着がついていないので、決着めいた結末をつけることは確かに出来ないだろう。しかし、ドキュメンタリーではないフィクション作品なので、何かしら「この作品」としての決着は必要ではないかと思う。「この作品」のフィクションとしての立ち位置がよく分からないまま終わってしまっている。

この作品の舞台となる大学の名は「京宮大学」で寮は「近衛寮」と呼ばれている。京都にあるという設定の虚構の大学だ。しかし、(建物内部がどうなっているのかぼくは知らないが)少なくとも寮の入り口(というかアプローチの部分)は、現実の京大の吉田寮で撮影されている。もしかしたら別の場所で撮影しているのかもしれないが、そうだとしても、吉田寮の入口と見分けが付かないほどそっくりな場所が選ばれている(あるいは、つくられている)。さらにウィキペディアによると、京大吉田寮は「吉田近衛寮」とも呼ばれているという。なんというか、どの程度現実に寄せた話なのか、どの程度の虚構性をたてているのか、現実に対するフィクションの距離感がよく分からない。吉田寮の問題を広く人々に知らしめる目的でつくられたのか、あくまでフィクションの題材として吉田寮の問題があるのか(たんなる現実のレポートではない、抽象性や普遍性の獲得が目指されているのか)。

投げっぱなしの終わり方をみると、かぎりなくドキュメンタリーに近い再現ドラマのようなものが目指されているように思われるのだが(そうでなければこんな半端な終わり方はない)、しかし、本編の部分はかなり虚構性が高いように思われる。つまり、終わり方と本編のあり方が噛み合っていないように思う。吉田寮の問題を題材としたフィクション作品を観ていると思っていると、中途半端なところでいきなり現実に開かれて終わってしまう。「京宮大学」の「近衛寮」の寮生たちの話だと思っていると、「京都大学」の「吉田寮」の事実にすり替わって終わる。

このドラマには、虚構的な大きな仕掛けが施してある。寮生側の団体交渉のリーダー格の男性の姉が、交渉先である学生課の窓口に職員として居る、という仕掛けだ。この仕掛けは隠されていて、いつも窓口にいる面の皮の厚そうな中年女性ではなくて、若い女性が窓口にいるので、リーダー格の男性は強い調子で詰めることができず、交渉できないまま無言で立ち去ってしまう、という場面があり、他の寮生はリーダーのふがいなさに失望したり怒ったりするのだが、実はその女性は彼の姉だったということが後に分かる。寮生が、いくら学生課の窓口に掛け合っても、そこにいる職員は、いくらでも交換可能な苦情処理のために雇われた派遣労働者にすぎず、大学の中枢には届かない(抵抗の不可能性)という(ある意味でカフカ的な)構造を示すための虚構的な仕掛けだ。寮生たちは、自分たちが一体何とたたかっているのか分からなくなる。

この仕掛け自体は面白いと思うのだが、このような仕掛けがある以上、このドラマは現実からある程度距離をとった自律した構造体としてあるのであって、現実の事件の単純な反映(再現ドラマ)ではないことになる。そうであるならば、フィクションである構造体としてのそれなりの落とし前が必要ではないかと思う。それなのに、仕掛けは仕掛けのままで、それがあるからこその(この作品ならいではの)展開や帰結に至らないまま、抵抗の不可能性に対する何らかの態度が示されることもなく、夜明けのお茶会でしんみりした後、寮の取り壊しに反対する人々による楽しげな演奏会の場面につづいて、現状報告的な字幕で終わってしまう。自分たちのたたかい方がまったく有効ではないという現実が突きつけられた後に、いきなり楽観的な演奏会になって、無力感から楽観への唐突な(根拠のない)移行に戸惑っているうちに、そのまま終わってしまうので、それはないでしょ、と思う。今後のたたかい方の指針すら示されないので「オレたちのたたかいはこれからだ」エンドですらない。

寮生たちは、大学当局の後ろには政府の方針があり、さらにその背後には経済効率最優先の社会のあり様があることに気づき、自分たちが何に対してたたかっているのか、このたたかいに意義があるのか分からなくなり、それに対して学生課のお姉さんが、経済効率最優先の社会では決して得られない幸福がこの寮の生活にあるのではないか、歴代の寮生たちもそれを守るためにたたかったのではないか、という「結論」のようなものを「セリフ」として説明するのだし、それは確かにその通りなのだろうが、この(外部からもたらされる)結論はあまりにふわっとして一般的すぎて、じゃあそのためにどうすればいいのかはまったく分からないままだ。

ここまで書いて気づいたのだが、ぼくはこのドラマを、現代における「運動」の不可能性というか、「運動の(モチベーションの)持続」の構造的な不可能性を描くものとして観ていて、だとするとこの物語は挫折と敗北以外のなにものでもなく(たとえば台湾のことなどが想起される)、だから唐突な楽観につなぐ終わり方が不可解なのだが、ドラマの作り手側は、この寮生活の楽しさ、その楽しさそのものの意義の肯定によって、寮生たちの運動を肯定するということを描こうとしていて(実際、寮生活の描写はそれなりに充実して魅力的ではある)、だから、今後の可能なたたかいのあり様など示さなくても、(考古学的な古層の発掘によって発見された茶室での)しみじみとした夜明けの茶会と、寮生以外の人々も巻き込んだ楽しそうな演奏会という、寮という磁場のもつ高いポテンシャルによる「寮生活の質的な充実」を示せば、それで終わってOKと考えたのかもしれない。そのようなものとして考えるのならば、それもありと言えばありなのかもしれない。