2020-03-23

●『映像研には手を出すな!』、最終話。仕方ないとはいえ、最終回は、どうしても最終回っぽくなってしまう。それが悪いということではないが、もっと普通に、普段の感じでそのまま終わってほしかったという気持ちもある。

今回で重要なのは、水崎氏の描いた渾身のダンスシーンを、監督である浅草氏がカットするという判断をしたということだと思う。音楽の発注ミス(行き違い)が起こってしまった時点で、音楽とのシンクロを意識した水崎氏の「渾身」が完全に報われることはなくなっている。とはいえ、水崎氏が特に力を注いだシーンであるわけで、完全にとはいかなくても、できる限りこのシーンを生かすという方向で考えたいと、普通なら思ってしまうのが人情だろう。

ここで仮に、音楽が想定された通りに仕上がっていたとしたら、浅草氏が作品の終わり方に納得できていなかったとしても、水崎氏のダンスシーンをカットしたい(作品のラストを変更したい)とは言い出せなかっただろう。

浅草氏はもともと、自分が考えたラストのあり方に完全に納得できてはいなかった(前回、音楽の発注ミスが発覚する前も、完成直前でありながら、絵コンテを見ながら微妙な表情をみせていた)。そこに、出来てきた音楽が作品のイメージと大きく違っていた(しかし、作り直す時間の余裕はない)という想定外の危機が訪れた。このアクシデントへの対処として、作品を音楽に合わせて微調整することと、決定的に音楽と合っていないラストを変更することを、浅草氏は決断する。もともとあったが握りつぶそうとしていた「ラストへの違和感」が、アクシデントによって促されることで「変更する」という方向にはっきりとした形をとった。

ここで顕在化されるのは、アニメーターと監督との立場の違いだろう。職人としてのアニメーターが、いかに力を注いで完璧なカットを描いたとしても(そのカットそれ自体の出来がいかに素晴らしいものであったとしても)、それが作品の趣向と合っていなければ、あるいは作品にとって必要でないものであれば、監督はそれをカットする。ここにはどうしても相容れないものがある。この物語では、水崎氏は浅草氏の判断をわりとすんなり受け入れるが、通常なら簡単に納得できることではないと思う。なんなら、十年後の呑みの席でも愚痴を言っているようなレベルで納得できないのではないか。そしてそもそも、浅草氏は、このような形で(人の努力を踏みにじるような)決断をすることが最も苦手(人になにか指示すること自体が苦手)な人物だったのではないか。想定外のアクシデントがきっかけだったとしても、浅草氏がここで監督としてそのような判断を下したということはとても大きい出来事だ。

これまで、プロデューサーである金森氏と、クリエーターである浅草氏、水崎氏との、存在のあり様の違いは繰り返し描かれてきた。だがここでは、同じクリエーターであっても、監督である浅草氏と、アニメーターである水崎氏との、決定的な立場の違いが描かれていると言っていいと思う。つまり、三人の立場は三者三様でそれぞれ異なり、完全にわかり合うことはないし、互いに相手の領分に対しては必要以上に踏み込まない(とはいえ、それぞれの立場からの係争はある)ということだ。そうであったとしても(というか、そうであるからこそ)、三人は「アニメをつくる」という共通の目的によって(それぞれが違う方向を向きながら)協力し合う。

そして、このような三人のあり様と、彼女たちがつくるアニメ作品のラストの変更(立場をこえてみんなが一斉に理解し合うということはあり得ない)には密接な関係がある、というようになっているところが面白い。

(三人だけでなく、百目鬼氏という、四人目のメンバーの存在も大きい。)