2020-03-18

●『映像研には手を出すな!』、11話。10話を録画し損ねて観ることができていないので、話のつながりが微妙に分かっていない。ただ思ったのは、映像研のメンバーたちが通っている高校のある芝浜の街(つまり、彼女たちにとっては「現実」の街)が、次第にフィクションの方へ寄って行っているということだ。

映像研が制作中のアニメは、芝浜の街を舞台にしている。また、芝浜という街が「水の街」であることは、シリーズを通じて徐々に強調されてきた。そもそも芝浜は地理的にかなり特徴的であり、変わっていて、それが監督である浅草氏を刺激し、新作のインスピレーションとなっていた。

だが、今回の散策のなかであらわれる芝浜は、「地理的に特徴がある」という範疇をこえて、ほぼ非現実的な、ありえない様相を呈していた。道路や駐車場が水没して、廃墟のようになっている場所(魚さえ泳いでいるので、台風などにより一時的に水が出ているということでもないだろう)に、三人の散策はたどり着く。この光景は、フィクションのためのモデルというより、既に(想像力を介さなくても)それ自体で人類に見放された場所であるかのようで、この場所自体がフィクショナルだ。しかもこの場所は、街を見下ろす高台にある。標高の低い場所ではなく、かなり標高の高いところにつくられた道路が、水没してまったく使えなくなってしまっているというのは、現実的には考えにくい。少なくとも上下(重力)が反転してしまっている。

そもそも彼女たちは、普段歩いている地面よりも低い位置まで降りて、暗渠のような場所に入り込んだはずなのに、それがいつの間にか街を見下ろす高台の水路(水没した道路)にでてしまう。暗渠が道路=トンネルにつながっている。この時点で空間は捻れており、彼女たちの散策の経路が現実的な空間のつながりの外に出てしまっていることを示している。浅草氏は、高台から街を見下ろし、あちらが天国であり地獄でもある、というようなことを言う。つまり、自分たちが生活している地域が既に「現世」ではなくなっているという自覚がある。

おそらく、映像研のつくるアニメ(フィクション)によって、現実の芝浜の街が浸食されていると考えられる。映像研のメンバーは、半ば浅草氏の「頭の中」に入り込んでいると、言もえる。虚構と現実が混じり始めていて、彼女たちはもはや、現実とも虚構とも言えない場所で生きていることになる。

(その後、金森氏が風邪をひくのは、半ば虚構的であるような場所は、現実主義的な金森氏にとっては異質な場所=居心地のよくない場所であったからではないか。浅草氏は水に落ちても風邪をひかない。)

とはいえ、そんな彼女たちもまた、確実にシビアな現実はある。現実は、「納期」や「音楽の発注ミス」として彼女たちの前に立ちはだかる。