●お知らせ。3月21日(土)、22(日)に、茅場町gallery Archipelago(http://www.archi-pelago.net/main.html)で、映画作家の川部良太さんの作品が上映されるのですが(どちらでもない場所で 川部良太映画個展)、その21日の上映終了後のトークイベントにゲストとして呼んでいただきました。『家族のいる景色』、『ここにいることの記憶』、『そこにあるあいだ』の三本が上映されます。川部さんの映画については、この日記でも書いたことがあります(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20090221)。どれも面白いのですが、特に『そこにあるあいだ』はすごく面白い映画で、しかし、上映される機会はそんなは多くはないと思うので、少しでも興味のある方はこの機会に是非。
●例えば『ここにいることの記憶』という三十分弱の作品は、ある団地でカワベリョウタという少年が十年前に失踪したという架空の事件を縦糸として設定することで、老朽化し、住む人も高齢化して取り壊しの決まった団地の風景と、そこに住む人々の姿を重層的に捉え、その場所に刻まれた固有の「記憶」のあり様を描き出そうとしたドキュメンタリーのように一見みえるのですが、川部さんからいただいたメールによると(最後に出るクレジットをみても分かるのですが)、この映画は実際には五カ所の別の団地で撮影された映像の合成で出来ていて、つまり「老朽化がすすんで取り壊しの決まった団地」という設定-場所がすでに複数の場所や人を撮影した映像のモンタージュによって構成されたフィクション-架空の場所だということです。つまりここであらわれる「場所」と「記憶」は、この作品によってはじめてこのような形で構成され、つくりだされたものだということです。しかし、その映像には、撮影した団地の実際の風景や音声、そこに住む人たちの、撮影したその時の姿が映っているわけで、まさにそのリアリティこそがこの映画を支えていて、実在する(そこにある)現実の映像がその姿のままで、その固有の場所から切り離されて(そこにはない)フィクションとしてモンタージュされている。そして、そこで(団地に住む人たちによって、しかしあからさまに「朗読」という形で)語られる失踪したカワベリョウタくんについての証言は、川部さんが自分の子供の頃の記憶に基づいて書いたテキストだそうなのですが、しかし、川部さんは実は、一度も団地で暮らしたことはないそうです(これはとても驚きなのですが)。ここでもまた、川部さんの記憶が、川部さん自身から、川部さんが実際に育った場所から切り離され、全く別の(現実の/そして架空の)場所に移動させられ、別の力の流れのもとで、別のものへと変質させられて響いているわけです。川部さんからいただいたメールでは、一度も住んだことがないにもかかわらず、団地に行くと「ここは自分の場所だ」という感覚が生まれる、のだそうです。それ自体架空のものである「団地」という空間に逆照射されることで、川部さんの記憶が、実在しないカワベリョウタに関する記憶として編成し直され、新たに生み出される。川部さんの作品は、ワンカット、ワンカットが、このような現実とフィクションとの力関係があやうく絡まり合うなかでつくられていて、それはまさに、現実でもフィクションでも「どちらでもない場所」で生まれ、そこからたちあがってくる映画だといえると思います。というかむしろ、この「どちらでもない場所」こそが、我々が普通に「現実」と思っている場所をつくりだしているとも言えると思います。
●それにしても、今年の花粉症はとてもひどいので、当日、ちゃんと人前で話が出来る状態でいられるのか、ちょっと不安ですが。