●小説には地名や固有名が書き込まれるが、では、絵画や写真ではどうなのだろうか。例えば、写真は、必ず「どこか」を「いつか」撮影したものであるから、それは常に現実と、そして特定の場所や時間との関係をもつ。しかしそれは、地名や固有名としてではなく、たんに視覚的な像としての関係だろう。そこに見えているイメージが、どこを撮ったもので、いつ撮られたものかということは、写真の外にある情報、キャプションや説明文によってしかもたらされない。だがしかし、誰でも知っている固有の何か、例えば富士山や東京タワーが写っている写真、あるいはミック・ジャガーが写っている写真などは、そこに固有名が写っているとは言えないだろうか。東京タワーは、東京タワーの持つ「ある視覚像」である以上に、「東京タワー」という言葉であり固有名である。ミック・ジャガーが本人ではなく、そっくりさんだとしても、それは「ミック・ジャガーのそっくりさん」であるから、そこにはミック・ジャガーという固有名が含まれる。そのような時、イメージそのものが名前であり、言葉であろう。
●だが、イメージとは常に名前であるとも言えるかもしれない。ある顔のイメージを見て、それを「顔」だと判断し、さらに「○○さんの顔」だと判断することなしに、我々は一日も生きてはいけない。勿論、その顔のイメージから、顔色が良い、笑っている、顎のカーブが美しい、肌のきめが細かい、等々、「名前」以上のものを多々読み取るのだが、まずは、顔は「顔」であり、誰かの顔であるし、ケヤキは「ケヤキ」であり、月は「月」であり、コップは「コップ」であり、「あ」という文字は「あ」であるということが読み取れなければ、世界とイメージを媒介として関係することは出来なくなる。イメージは常に、純粋にイメージであることはなく幾分かは言葉であり、言葉もまた、純粋に言葉(象徴的な体系)であることはなく、幾分かはイメージであろう。
東京タワーのイメージが、たんに「鉄塔」ではなく、そのまま固有名「東京タワー」でもあるということは、ある顔のイメージが、誰かの顔ではなく、知っている○○さんの顔であるということと変わらない。しかし○○さんを知らない人にとっては、○○さんの顔のイメージは誰かの顔に過ぎず、固有名とはならない。東京タワーのイメージと○○さんの顔のイメージ、ミック・ジャガーの顔のイメージと○○さんの顔のイメージとの違いは、たんに社会的な認知度、イメージの流通性の違いに過ぎず、それはイメージそのものの質の違いではないだろう。
●それは、ある程度言葉にも当てはまる。例えば鈴木一郎という名前はほとんど固有名とは思えず、たんに「名前の例(誰かの名前)」に過ぎないように感じられたのだが、しかし「イチロー」という存在によって、揺るぎない固有名となった(鈴木一郎ではなく「鈴木一朗」だ、と指摘されました)。だがしかし、一般的に言って、あきらかに「名前」であるような文字の連なり、音の連なりは、その人物を知らない人にとっても固有名として理解され、固有名として機能する。おそらく、小説のなかの架空の登場人物が成立するのは、このような固有名の機能と関わっている。とにかく、名前さえあれば、その人物は存在すると見なされる。人の形をしたもの、人のように振る舞うもの、人であるかのように喋るもの、その得体の知れない何ものかは、名前をもつことによって登場人物と成る権利を得る。たんに書かれたものである、誰のものともしれない行為、言葉、あるいは思弁が、ある名前のものとに着地することで、ふくらみと実在感のある人物として結像される。名前は、その得体の知れないものの様々な、時に矛盾する諸々の言動を束ね、その責任を引き受けるものとしてある。名前さえあれば人である、とさえ言えるのではないか。それは時に、たんに「彼」とか「彼女」とか呼ばれるだけかも知れないが、一本の小説を通じてずっと「彼」と呼ばれつづける人物にとって、「彼」とは代名詞ではなく固有名であると言えよう。だが、彼と呼ばれる限り、「彼」が本当に一人の同じ彼であるのかは確定されないのだが。
●だがしかし、たんに人の形をしたもの、人のように動くもの、人のように話すものが描写され、それらのイメージが結像する着地点としての固有名をもたないとしたら、どうだろうか。それは一人の(一個の)何かなのか、それとも複数の存在なのか。現実なのか幻であるのか。実態であるのか影なのか。あるいはまた、現実と幻を自由に行き来できるものなのか。そもそもそれは人の形に本当に似ているのか。名前という着地点を持たない、形、動き、言葉、思弁、等々は、それが詳細に書かれ、まったく突飛なものではなく、きわめて現実に似通っていて、現実と正確に対応してさえいるとしても、着地点をもたないその記述の束、諸々の描写は、それが一人の人物として構成されることが困難となるだろう。
●場所もまた、同様ではないか。必ずしも、舞台となる「そこ」の地名が明確に示される必要はないだろう。それは、新宿から埼京線で行く駅とか、関東の北に位置する地方都市とか、南米の新興国の一つとか、それがまったく架空の土地の突飛な情景だとしても、何かしらの形で「新宿」「埼京線」「関東」「南米」などという、現実的な土地との参照関係にある地名があり、その地名とのおおざっぱな関係が示されさえすれば、それによってある実在を得るとは言えないだろうか。逆に、そのような関係が示されていないと、ある土地や風景の描写がいかに詳細で、しかも実在する「どこか」ときわめて正確に対応しているのだとしても、その場所を行き来する人たちがいかにリアルな存在として描かれようと、いや、そうであればあるほど、そこに書かれる世界そのものの基底となる足下があやふやになるように思われる。つまり、ある出来事が、それが帰属すべき、頼りにすべき着地点を見失うのではないか。それは現実(として書かれたフィクション)なのか、妄想なのか、夢なのか、想像なのか、それらが入り交じっているとして、どこでその線引きがなされるのか、というか、そもそもそのような諸々の経験を「複数の異なる次元」へときれいに峻別することなど出来るのか、そのための基準はどこにあるのか、ということまで危うくなるようにも思われる。勿論これはとても大げさに言っているのだが、そのような不安の芽が生じることは確かだと思われる。
●現実に似ているということ、あるいはリアルで生々しいことは、それが現実であることを保証しない。まるで現実のような夢もあるし、ある種の病人にとっては幻聴によって伝えられる言葉こそが最もリアルな響きをもつだろう。現実を保証するのは、外的なものとの参照可能性であり、それが他者たちと共有されているというところにしかない。そしておそらく、書かれた言葉がそこに開かれるためには、言語の体系がその外部にあるものとの参照関係をもつ固有名の機能による。固有名は、それが「ひとつのもの」であること、「ひとつに統合されたもの」であることを示す。というか逆に、我々に訪れる様々で雑多な経験の束は、固有名の効果によってこそ、「ひとつのもの」としてのまとまりを確保する。固有名によって、常に変化をつづけ流れ去ってゆくこの世界のなかで、「ひとつのもの」が「反復可能」であることが示される。だからむしろ、固有名は言語の外に向かうものというよりも、あるものに「一」であることを刻む、つまり記述や経験の着地先を刻みつける、言語の原初的な機能そのものであると言える(でもそれはおそらく、言語だけではなく、イメージの力と表裏一体になってはじめて機能する)。
●だが芸術にとっては、現実によって保証されない場所へ、まずはいったん出てみることこそが重要だと思われる。固有名、地名、あるいは日付こそが、フィクションの成立の条件となるのだが、むしろそれを見失うところに、フィクションの機能の意義と強さがあると言えないだろうか。