●歩道橋を渡っていると真下をバスが通り、バスの屋根に光りが当たってまぶしいほど反射していて、そこに街路樹の影がさっと流れるようによぎった。
●緩やかな坂を下っていて、見下ろしたところにある小学校の校庭の隅にある、小さな、水の張っていないプールの内側に塗られたエメラルドグリーンのところに、そこだけ、周囲の木々の影が落ちないような角度で日が射し、光が当たっていて、そのエメラルドグリーンが目に貼りつく。
●柿やみかんやキンカンのような、黄色やオレンジの実をつける樹は、葉の緑が濃いように思う。そしてその濃い緑の奥には、黄色が確かに存在している。一部の葉では、葉の根元から、じわじわと黄色が浸食しはじめているのが目でもわかる。
●(ちょっと昨日のつづき)地名は日付と似ている。それはどちらも、ある経験や出来事を、多くの人々にとって共有できる地平へと結びつける。それぞれバラバラにある、一人一人の人の経験が、地名や日付によって、互いに参照可能なものとして結びつけられる。それは、経験の外にあって、異なる経験を関係づけるための、それ自体としては意味を持たない純粋な形式、あるいは言語のようなものだろう。
ある人が、ある理由である場所を訪れる。そして、別の人が、それとは無関係に、ある理由である場所を訪れる。その二人の経験はまったく別々に存在する。しかし、その「ある場所」がどちらも、例えば八王子市散田町と呼ばれる地名をもつとする。すると、その、まったく異なった二つの経験が、八王子市散田町という蝶番を通じて、互いを映し合うことが可能になる。経験の外に、ある客観的で形式的な点として措定された「八王子市散田町」という名前-位置が、比べることの出来ないものの間に関係をつくりあげ、その関係によって、そこから共通の何かが抽出可能になる。それ自体としては意味を持たない点である「八王子市散田町」は、複数の経験の交点として作用し、その効果によって複数の経験の関係が打ち立てられる。そこで複数の経験が折り重ねられることではじめて、「八王子市散田町」の経験という次元が成立し、「わたしにとってのある場所の経験」が、「八王子市散田町」をめぐる経験の一つという着地点を持ち、他の人、他の時間の経験との通路を確保し、比較可能になる。同じ場所に行っても、人によって受ける印象が異なるなどということも、「同じ場所」という形式的、抽象的な点-位置が、個々の経験の外部に確保されて、はじめて言えることだ。
あるいは、ぼくは1967年5月23日に生まれた。それは、時間の流れのなかの、ある点を指定する。そして、ぼくとはまったく異なる出自をもち、異なる土地で生まれ、異なる経験をして来た、ぼくと同じ日に生まれた人がいたとする。その二人の経験(人生)は本来無関係であり、その内実もまったく異なる。その二つの経験-人生-時間は、本来比べることの出来ない、別物として、別の場所に存在する。しかし、同じ日に生まれたという、その同じ「日付」によって、本来無関係な二つの経験は強引に関係づけられ、関係づけられることの効果によって強引に「共通する本質」のようなものが事後的に浮かび上がる。同時代とか、同世代とかいう「本質」は、このように成立する。客観的なものとしてあるのは、同時代性そのものではなく、それを可能にする、それぞれの経験の外にある純粋な形式,、純粋な参照枠としての「日付」である。
地名は、物理的、科学的な意味での地球上の位置のことではないし、日付は、物理的、科学的な意味での、時間のある点のことではない。それは、人間の外にあるものとして人為的に設立された形式であり、参照枠であり、つまり自然ではなく「言語」であろう。
言い換えれば、我々は、地名や日付という抽象的な形式によって辛うじて、自分自身のもとに訪れる個々の「経験」を、多くの人と共有し得る「現実」へと着地させることが出来る。それは抽象的なものであるから、その「経験」の内実を問わずに強引に関係づける。強引に関係づけられるからこそ、そのおかげで、事後的にそこに共通性が見出され得る。
昨日書いた連作集の表題昨は、そのような意味で、経験が現実に着地する(経験を現実として保証する)、その着地点を作中から占め出したということだと思われる。しかしそれは、まったく幻想的な光景ではなく、正確に現実に似ている。その経験を形作る一つ一つの要素は、きわめて正確に現実のその土地(地図)との対応関係を持っている。しかし地名が書かれないことは、いくら現実と正確に対応しているとしても、最後の最後のところで、その対応関係に確信がもてなくなるということだと思われる。つまり、そこで書かれている経験が、自らの正統性を保証する外的な手がかりを放棄しているのだと思う。
作品に刻まれた「何」が、この作家の作品をそのように変化させたのか、そして、そのような変化によって、作品そのものにどのような効果があらわれているのか、が、この作品論で追求されることとなるだろう。
●思いつきをちょっとメモするだけのつもりだったのが、いろいろ書きすぎてしまった。あんまり書くと原稿がかけなくなるので、このへんで。あと、この作家の以前の作品で、作中にたくさん地名が書き込まれているのに、高校時代の友人に会いにゆく場所だけ地名が書かれていない、ということがあった。これもヒントになるかもしれない。