2019-09-13

●引用、メモ。「桂---その両義的な空間」(磯崎新)より。

《桂は、中央に位置する書院の他に庭園内に数件の茶邸がある。庭園も場所によって手法の異なるものが組み合わさっている。構成する建築のタイプが多様であるが、同時に、それがかなりの期間にわたって、異なった人物の手によって段階的につくられたため、当然、ちがったデザイン手法が混在し、複合している。しかも桂が造営された寛永(一六二四~四三)は、日本の建築史上でも希有なほどに、そのデザインがドラスティックな変化を遂げた時期であったので、その変化した前後の手法が、当然のことながら全域にまぎれこみ、ちりばめられている。時間的にも空間的にも、幾重にも重層している、といわねばなるまい。》

《興味深いことに、桂は、四半世紀のあいだにわたって、その時代の転換がおこなわれるような重要な地点に、建築家たちの意識のなかに、姿を変えながら立ち現れている。ブルーノ・タウトの桂評価を演出した建築家たちにとって、桂は近代主義を保守的民族主義による圧殺から回避する重要な梃であった。そして堀口捨己にとっては、近代的なものと民族的なもの、西欧的なものと日本的なもの、といった相容れない要因の相互に架橋する論理が例証できる舞台であった。また丹下建三には、桂が、縄文的なものと弥生的なものが激突する、創造の契機を内包した戦場のようであっただろう。しかし、いずれの場合も、同じ桂であった。ということは、彼らの組み立てた読解装置が、それぞれの時代の文脈のなかにあって異なった作動をしたための結果である。》

《一七世紀の初頭は、住宅建築において、二つの形式が重なり合った時期である。ひとつは書院造りで、中世以来、主として武家、寺院の住居形式として発達した。もうひとつは数寄屋造りで、庶民住居、草庵風茶席などの非格式的な住居に用いられていく形式である。前者は、中世の大工がもっていた木割り体系を展開させ、大棟梁による組織的な建設を背景に、雄渾で、武家の好みに適合する、格式的な様式で、西欧のクラシック・オーダーを厳密に使用する方式に比較できる。後者はそれにたいして、施主の直接的な好みを反映させる中世的な、施主と大工の関係を保持し、自在なアドリブを重視したフリースタイル・クラシズムともいうべき方式で、一七世紀以降、急速に町屋、武家の別業などに用いられるようになった。》

《桂はこの二つの形式が重なり合う時期に建造された。主要建物は書院という名称をもっている。そしてその平面形は明らかに書院造りに近い形式をとっているのだが、その木割りは、近世的な方法として確立した大棟梁のものでなく、むしろ立面や装飾は数寄屋造りの面影が濃厚である。微妙に両方の性格をもっていて、いずれとも断定しがたい。》

《ここで共通している視点は、桂が、文化的系譜、建築様式、政治的引力、階層的関係、そのいずれにおいても明快な判定を下すことが不可能なほどに複合した関係性のなかに絡めこまれていることを指摘することである。それを、併存とみるか、拮抗とみるか、妥協とみるか、融合とみるか、統合とみるかは、それぞれの言説の意図するところによって異なる。だが、いずれにも共通するのは、桂が、内側に矛盾し対立する要因をかかえこみ、それが幾重もの意味を発信している事実である。それを、桂がもつ両義性といっていいだろう。》