●茶室(茶室を研究すること、茶室から影響を受けること)は、戦前からの、あるいは明治以降の、「近代化」された日本のメジャーな建築家たちにおいては、軽くみられていた、あるいは敬遠されていた、という指摘も興味深い。茶室というものの不思議な位置。
●『藤森照信の茶室学』の巻末に収録されている、磯崎新との対談より。
藤森照信の発言。「妾」の建築としての茶室
《僕が茶室に興味を持った理由はいくつかあるんですが、一つは、磯崎さんの先生世代は一切茶室にふれなかったことなんです。丹下(健三)さんも前川(國男)さんも(アントニン・)レーモンドさんもそうです。だいたい丹下さんや前川さんから茶室を思い浮かべることすらできない。前川さんの茶室なんて見たくもないですし。板倉(準三)さんが一人茶室を作ってるんです。戦前に作った、等々力にある團伊能さんのお妾さんの家。あれは発表されたときはお妾さんの家ということは分からなかったんですが、お妾さんの家であれば茶室を作るのが戦前の社会を知る人ぞ知るルールです。戦前のお妾さんっていうのは花柳会界の人たちで、貧しい家の優秀な子女は花柳界に行くしかなくて、そこでいい旦那さんにつくというのがコースでした。京都の中村昌生先生が茶室の研究を始めるとき、妾の建物を研究するつもりかって、周りから批判された。井上章一さんに聞いたら、今でも京都では言われているって。
《辰野金吾さんは茶室について何て言っているかというと、「あんなヤニっぽいもの」やっちゃいけない。ヤニっぽいって、辰野さんの故郷の唐津の方言で「女々しい」の意味です。だから辰野さんはやらなかったし、丹下さんもやらなかった。戦後復興という建設の時代をリードしたモダニストのレーモンド、前川、丹下はやってないんです。彼らは伝統を論ずるときに、絶対茶室に触れない。桂か伊勢、法隆寺系です。》
磯崎新の発言。反建築、あるいは盲腸としての茶室
《大江(宏)さんは茶室研究の第一人者であるモダニスト堀口捨己を師にして、助手までやって、伝統的な日本建築の正統を見いだし、父親である大江新太郎の仕事を継いで、日本建築の現代化を模索されていたことが分かりました。建築の正統は堂・祠・居であって、能楽堂はこれに入るけど(国がパトロンになり得るわけです)、茶室は崩れていてここには含まれない、とはっきり言われています。堀口捨己を師と言いながら、その師の茶室にかかわる全仕事を否定しているのです。伊勢神宮で、神楽殿や美術館の設計はやっているけど、同じコンプレックスにある数寄屋や茶室は出掛けていない。区切りがはっきりしています。》
《ついでながら、堀口捨己は茶室について「非都市的なもの」を手掛かりにしています。僕はこの語り口を学んで「反建築」(カウンター・アーキテクチュア)を言うことにしました。(…)建築=都市=国家という等符号を付けた概念規定を近頃やっているのは、日本の近代になって、その主流がみずからを正統として位置づける枠組みを無意識に組み立ててきたためだろうと気づいたからです。この正統を正当化するやり方に茶室は入りません。》
《プランで歴史的にお茶室が発生する状態を見たら、これは書院造りのきちんとした端っこにちょこんと付いている盲腸ですよ。いらないものなんだけど、くっついているっていうのがお茶室じゃないか。そうするとその盲腸をどう扱うのか。》
《僕の盲腸はもう切られちゃったんだけど、漢方では切っちゃいけないって言いますね、あれは生体を維持する見えない役をしているんです。建築における茶室の作用のメタファーは盲腸っていうのはあるような気がしますね(笑)。》