2024/03/02

⚫︎引用。メモ。『建築における「日本的なもの」』(磯崎新)、第二章「カツラ――その両義的空間」より。桂離宮の庭園にかんする、とても優れた記述だと思う。《由来も手法も異なる庭園の各部分を連結させるのは、そのなかを通過する視線である》。「虚の透明性」だ。

《ここで共通している視点は、桂が、文化的系譜、建築様式、政治的引力、階層的関係、そのいずれにおいても明快な判定を下すことが不可能なほどに複合した関係性のなかに絡めこまれていることを指摘することである。それを、併存とみなすか、拮抗とみるか、妥協とみるか、融和とみるか、統合と見るかは、それぞれの言説の意図するところによって異なる。だが、いずれにも共通するのは、桂が、内側に矛盾し対立する要因をかかえこみ、それが幾重もの意味を発信している事実である。それを、桂がもつ両義性といっていいだろう。》

《(…)ここでも桂の過渡的性格があらわになる。それは、数寄屋造りとしてシステム化されるにいたらない、前段階にある、近世的な書院づくりを、草案的なものを手がかりにして崩していく、そのさなかにあった。それ故に両方の性格が重なり合って浮かびあがり、読解の視角に応じて、どちら側にもみえはじめる。》

《桂の書院が二つの様式の重なり合いからつくられたように、庭園もまた、王朝的な舟遊びの庭から、近世的な回遊の庭への移行過程をそっくり包みこんでいる。雁行配置は、その段階を組織化する手法として用いられた。大まかに三つにわけられる庭園も、水と苑路が、それを縫い合わせる手掛かりになっている。》

《初代トシヒトが桂を構想したとき(一六一五年以降)、桂は、瓜畑のなかにある簡素な茶席であった。古書院がそのときの建物であろうとみられるが、池は、いまの神仙島のある周辺だけであったろう。このあたり、池の端はやわらかい曲線をえがき、寝殿造り前庭の面影が残っている。寝殿造りの前提は、縁の前に白砂が敷かれそのむこうに池が掘られた。このなかには必ず島が築かれ、橋がかけられた。池面には竜頭鷁首のついた舟が浮かび、ここでは酒宴などが催された。》

《この初期の庭園から、池が東北側の松琴亭前と、西南側の笑意軒前の二つの方向に、その後拡張されている。これは、それぞれまったく異なった特徴的な手法をもっており、ともに二代トシタダの手によると考えられる。》

《松琴亭前の池は中央に天の橋立を模した島があり、全体に岸辺は石組みによって構成されている。初代トシヒトの妻常照院の生国若狭から、天の橋立のモチーフがとられたといわれるが、こみいった石組みは、ここが松琴亭に併設されている囲い(茶席)へ御幸門脇の御腰掛から卍亭を横にみて到達する露路庭の扱いにもなっている。》

《いっぽう、笑意軒前の池は、単純な直線で、その護岸にも切石が使われ、全体に幾何学的に構成されている。また新御殿前の芝生の敷かれた単純な空間である桜の馬場と連なって、西南側を強い構成的景観に仕立てている。》

《王朝風の神仙島附近にたいして、この二つの拡張された庭園は、いずれも近世になって生み出された庭園手法に基づいている。ここでもまた、小堀遠州が作庭した、上皇ゴミズノオのための仙洞御所が、そのモデルとみられる。天の橋立附近の石組みは、仙洞御所で遠州好みとして残っている出島附近の手法に近い。笑意軒前の直線的構成は、同じく扇動御所の切石を多用した幾何学的な池や流水の護岸の手法を思わせる。》

《この由来も手法も異なる庭園の各部分を連結させるのは、そのなかを通過する視線である。ここでもまた雁行配置に向い合う視線のように、中心を常にズラし、移動させられる。この視線の移動を編成するのが、巡路である。》

《庭園は、水と陸と両方から眺められていた。その際の回遊路の編成は、位置を強制的に決めることになる。庭園内の茶室は庭にひらいた縁側をもっているが、それはここに腰掛けて、庭園を眺める際の眼の位置を決める。その楼という名称から、高い位置から見はらすための建物である。》

《腰掛けや縁台は、回遊する視線を、特定の位置に固定する仕掛けである。松琴亭の室内より重たい軒先で仕切られた、横にひろがる天の橋立。峠の茶屋と呼ばれる賞花亭より樹木ごしに眼下にみる池の曲線。階段を昇ってはじめて到達する笑意軒の奥へさがった縁よりの、おおらかさを感じさせる光景、など、性格の異なる手法の庭が、視線の位置の固定によって、その特徴がいっそう強調される。》

《茶室からの眺めを、一定の時間にわたる休止点とするならば、それを連結する苑路は、たえず変化していく光景を小刻みに感知させる装置である。砂利敷き、真・行・草、さまざまなパターンの敷石や飛び石、むくり勾配の違う各種の橋、石段、坂道など、接地する箇所のテクスチュアがきめ細かく変えられる。それは、歩き方を意図的に規制することによって、呼吸を支配する。速度や回遊路を自在に選択させながらも、あらがわせずに、視線をうごかす演出である。》

《この陸上の苑路が、視線をたえまなく振りうごかすように編成されているとすれば、池のうえの舟遊びの際の視線は、逆にそれを水面近くに固定して、水平の移動だけに限定する。舟がすすむにつれて、光景が向こうから立ち現れてくる仕組みである。》

《(…)回遊性の視線は、空間内に固定した軸の形成をたえず拒絶することになる。視線は常に移動する。そのとき光景は分断されていく。その切り取られた断片を連結する仕掛けが、陸と水上に設定される回遊路なのである。雁行配置が平面の重点とずれによって空間の深奥性を表現したように、回遊する視線は、光景を断片化して、それをたたみ合わせ円観的な構造を導き出す。》

(追記。去年の1月31日の日記で、ほとんど同じ箇所を引用していた…。)