2024/03/01

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』第六話。「おじさんが昔話をするのは17歳に戻りたいから」とか、そういうわかりやすいきれいごとに持っていこうとする手つきには依然として抵抗を感じてしまうが、それでも、すごい展開力だなあと唖然とするように眺めている感じ。まさか河合優実を未来に連れていくという流れになるとは思ってもみなかった。

1995年以降の世界を知ることができない娘に、その先にも続く未来を見せようとする。彼女が見ているのは、自分が死んだ後にも存続し続けている、大きく変化したと同時に変わり映えのしない世界と、そこで成長した未来の娘の姿だ。

娘の側から考えると、若いとはいえ、おじいちゃん=阿部サダヲは孫=仲里依紗より年上ではある。しかし、仲里依紗は今度は、逆転して自分より若い母に対面することになる。

(『アリスとテレスのまぼろし工場』では、未だ母でない、というか、永遠に未然の母であり続けるしかない未・母のもとに、決して到達できない未来から「娘」がやってくるのだが、ここでは、母が、決して到達できない未来へやってきて、成長した娘に会う。娘の側から見れば、自分より若い母の幽霊に会っているようなものだが、母の側から見ると、『アリスとテレスのまぼろし工場』に近いことが起きていると言えるのか。)

河合優実が17歳であることが強調されることで、1986年と2024年、そして1995年という三つの客観的な時間のほかに、仲里依紗やファーストサマー・ウイカが17歳だった時代、阿部サダヲが17歳だった時代という、個別の時間の層がたたみ込まれる。17年以上生きた人は、誰もが17歳であり、誰もが17歳ではなくなる。そのタイミングがズレているだけ。過去と現在の対比と係争だけでなく、そもそも、今、この時それ自体に、複数の時間の層が含まれていることが改めて意識される。そして、仲里依紗やファーストサマー・ウイカが17歳だった時代からの「遺物」としてエモケンが登場する。

(動いている阿部サダヲを見ているとしばしば忘れるが、阿部サダヲの役は設定では美輪明宏と同じ年に生まれた人で、「スキャンダル」のマスターである沼田爆より五つも年上だ。阿部サダヲとエモケンがあたかも同世代で、同類おじさんであるかのように見てしまうが、阿部サダヲがポロッと「俺が17歳の時はテレビはなかった」と口にすることで、その違いが改めて意識される。実は、ズレ=断層は至る所にある。)

(河合優実の役柄が、1986年の1月か2月くらいの頃に17歳だということは、おそらく86年は18歳になる年で、ならば1968年生まれということになって、ぼくと一年違いのほぼ同年代だ。)

そもそも、テレビ局が舞台となっているだけで自己言及的だが、さらに脚本家とドラマ制作班が出てくることでさらに自己言及度が増す。過去は確定しているが、現在は不確定で開かれている。故に過去と現在は等価ではない。ドラマ制作班が物語の中に入ってくることで、「今、まさに放映中であるこのドラマ」の反響が、自己言及的にドラマ内に反映されるということが今後あるのかもしれない。

(過去と未来とが干渉しまくっているけど、これはタイムパラドックス的にどうなのかとは思う。厳密なSFではないから細かいことはどうでもいいとしても。前回、古田新太が、河合優実は不良仲間と縁を切って現役で大学に合格すると言っていたが、そのきっかけがテレビ局でバリバリに働いている仲里依紗と出会ったことなのだとすれば、母が、未来の娘の影響を受けることで父と出会うことになり、「輪廻の蛇」問題が生じてしまう。)

(ぼくの記憶では、80年代のボンタンは、ニッカポッカみたいに裾が狭くはなっていなくて、ただ、ひたすらストレートに足の部分が太いだけだった。ボンタンというよりドカン(土管)と言っていた気がする。《今日も元気にドカンを決めたらヨーラン背負ってリーゼント》(「ツッパリ・ハイスクール・ロックンロール」)。長ランが短ランになり、ボンタンの裾が狭くなっていくのはもっと後のことだ。)