⚫︎三鷹SCOOLで、連続講座「面とはどんなアトリエか ?」special (第四回)「シネマの再創造」報告会。
https://scool.jp/event/20231015/
七里圭による「シネマの再創造・リブート」(早稲田小劇場どらま館)の報告会(を含む会)だが、ぼくはそれを観ていない。ただ、「シネマの再創造」関連では、前回の「面とはどんなアトリエか? 」で、『石巻ハ、ハジメテノ、紙ノ声、、、』試演(京都芸術劇場・春秋座)の記録映像と、『清掃する女』CGは観ている。「石巻ハ…」は、観客が舞台の上にいて、本来のスクリーンの位置と、舞台と客席の間に張られた紗幕スクリーンに挟まれて、対面する二つのスクリーンの間で、互いに影響し合う二面の異なる映像と吉増剛造のパフォーマンスを観る(パフォーマーも観客も舞台の上にいる)。『清掃する女』でも、舞台に前後二枚の紗幕スクリーンが張られ、それぞれ異なる映像が投影されるなか、安藤朋子と黒田育世がパフォーマンスする。どちらも、上映と上演が組み合わされ、スクリーンが多層化され、紗幕によってスクリーンが半透明化され、そして、複数のスクリーンの間にある(あるいは、複数のスクリーンの間が作る)空間が問題とされる。おそらくこれが「シネマの再創造」の基本的な形であろう。
映画はリュミエールが起源ではなく、映画は複製芸術ではない、と七里圭は言う。たとえば洞窟の奥深くで、炎のゆらめく光に照らされて、壁画が浮かび上がり、そこに人々の影が被さる。そのようなイメージが映画の起源として考えられ、そこから映画を再創造しようという試みだという。光源(炎)があり、投影される像(影)があり、イメージ(壁画)があり、パフォーマーでもあり観客でもある人々がいる。この空間全体が映画である、と。映画館は見世物小屋でもあり、初期のサイレント映画では、スクリーンに投射される映像だけでなく、活弁の語り、楽団の演奏、観客のざわめきや喧騒まで含めて映画である、というようなイメージ。このとき、たんに上映にパフォーマンスが付け加えられるのではなく、プロジェクションそのものがパフォーマンスとなり、スクリーンは世界がそこで像を結ぶ特権的な平面ではなく、三次元空間内である特定の位置を持つオブジェクトとなる。
実際に上映+上演に立ち会っていないので確定的なことは言えないが、「シネマの再創造」の作品のありようは、ただ、「音から作る映画」の複数の層の複雑な畳み込まれ方をみても、そこで想定されている原初の映画、初期の映画のイメージのような素朴なものではないと推測される。
例えば、「音から作る映画」の第四作『あなたはわたしじゃない』では、「サロメの娘」シリーズ前二作でずっと中心的な「語りの声」を担当していた青柳いづみが被写体として登場している。つまり、「語り(声)」がその「主人(起源イメージ)」と結び付けられたかのようにみえる。しかしここには二重の錯覚がある。まず、語り(テキスト)は青柳によって書かれたものではない。そして、(おそらく)青柳は過去に録音された音声に合わせて口を動かしている。映像として見えている彼女は録音(既に決定されている音)に従って動いている。青柳=イメージは、テキストに先取りされ、録音(青柳=声)に先取りされて、遅れて最後にやってきた者なのだ。既に決定された場に最後にやったきた青柳=イメージが、あたかも語りの主体であるかのようにみえる位置にいる。このようなねじれが「サロメの娘」の基本的構造だ。確かに、青柳=声も、青柳=イメージも、同じ青柳いづみという人物を起源にしているのだから、声とイメージは一致していると言えなくもない。しかし、綺麗にリップシンクしてみえるのは映画の序盤だけで、次第に「今、ここで声を出しているのではない」というズレた感覚が強調されるようになる。声とイメージとの関係は、確かに表面的には「わたしはわたしである」が、厳密には「わたしはわたしじゃない」と告げている。
一方でこの映画は、メビウスのようなねじれを通して、娘が母の位置につき、母が娘の位置につくという作品でもある。それはつまり「わたしはあなたである」「あなたはわたしである」ということだ。ただこれは、娘が成長して母となり、その母が娘を産んで、さらにその娘が成長し…、という時間的、歴史的な反復とは違う。ここで時間は二世代分で閉じている。これがトポロジー的な閉じた円環構造であって、時間的な反復構造ではないことは重要だろう。そして、「わたしはわたしじゃない」という事柄が、主に青柳=声と青柳=イメージの間での出来事だとすれば、「わたしはあなたである」は、黒田育世と長宗我部陽子の間(母=イメージと娘=イメージ)、青柳いづみと長宗我部陽子の間(娘=声と娘=イメージ)での出来事だといえよう。イメージとイメージ、声とイメージは、別人であるからこそ同じ「座(位置)」を得ることで重なり合う。『あなたはわたしじゃない』というタイトル(そして、ラスト近くでの長宗我部陽子への青柳いづみのセリフ)は、この作品のあり方が「わたしはわたしじゃない」と「わたしはあなたである」の重ね合わせとして成立している中で、たまたまその高次元構造の一段面として、ラストに「そこ」に収束したと考えるべきではないかと思う(故に「結論」と考えるべきではないと思う)。
(「あなたはわたしじゃない」というセリフは、青柳=声の場から発せられるものである以上、その「あなた」は、長宗我部=イメージであるのと同時に青柳=イメージでもあり、これはつまり、青柳=声と青柳=イメージとの間で生じた出来事が、映像レベルでの二つのイメージの間にも波及したものと考えられる。)
さらに言えば、映像の次元で働く「わたしはあなたである」原理は、黒田育世と長宗我部陽子という母・娘だけでなく、いわば母の将来と言える安藤朋子、娘の過去と言える工藤美岬まで延長され、この、母・将来と娘・過去という二人が「同じ柄のシャツ」を着ていることで重ね合わされ、母・娘のメビウス構造と同時に、四者が連環する一回り大きいもう一つのメビウス構造を立ち上げる。
このような構造を成立させるために、この映画で使用される映像・音声は、(1)この作品のために撮影、録音されたもの、(2)「音から映画を作る」シリーズの過去作そのものの引用や、そのために撮影、録音されたストックから転用されたと思われるもの、(3)「音から映画を作る」シリーズの一環として複数回なされたパフォーマンスの記録映像・音声、(4)(1)から(3)までの映像、音声を元にそれらを複数層としてオーバーラップして重ねたもの、の四種類あると言える。(3)は、背景の複数スクリーンの映像とパフォーマーの行為が同時に映っているのでそれ自体で既に多層的だが、それがさらに別の映像とオーバーラップされたり、パフォーマンス時に背景スクリーンに映されている映像(二次映像)と、その生(一次)映像とがモンタージュされたりする(ここでは、オーバーラップは層として重ねること、モンタージュはカットからカットへ線的に繋げることを意味する)。一次映像と二次映像(メタ映像)と三次映像(メタメタ映像)が、矢継ぎばやに繋げられたり、重ねられたりする。時間(時期)の異なる「同じ場所」が重ねられたり、繋げられたりするし、あるいは長宗我部の印象的な仕草(掃除をする ? ような奇妙な動きや、宙に手を差し出して何かに触れようとする仕草)が、時間も場所も超え、一次映像、二次映像、三次映像(二次映像+オーバーラップ)といった垣根も超えて、重ね合わされたり繋げられたりする。これによって、複数の時間が、複数の層として重ね合わされ、線上に進む時間が、層と層との間の空間の中に再配置されることで、メビウス構造が作られることが可能になる。
「サロメの娘」シリーズは、過去作と、過去作となったかもしれないが使われなかった部分を織り込み、同時に、過去作の発展系としての上映+上演された作品の「記録映像・音声」を織り込みながら展開する。A.(長宗我部陽子、あるいは飴屋法水が出演する)完成された映画作品。B.Aの映像、音声をその一部として含んだ、(長宗我部陽子、あるいは飴屋法水による)Aの発展系としてのパフォーマンス。C.Bの記録映像。A`.AとCとを取り込んで、発展させた映像作品。B`.A`をその一部として含んだ、A`の発展系としてのパフォーマンス…、というように、「C=記録映像」を媒介として、A、A`、A``…という系列(映画)と、B、B`、B``…という系列(上映+上演)が、互いが互いを映し合い、含み混み合うように展開する運動のうちの、Aの系列が「音から作る映画」であるとすれば、「シネマの再創造」は、このBの系列の方に深く傾いたということなのではないかと、「シネマの再創造」をまだ充分に観られていない者として思った。
で、このときけっこう重要なのは、折り返すたびに深く重ねられていく、一次映像、二次映像(メタ映像)、三次映像(二次映像+オーバーラップ)…、という各層が、階層構造を作らずに、任意に前後、上下を入れ替え可能な薄っぺらくて半透明な幕であることだと思う。それぞれの層は、いかようにも重ねられ、いかようにも繋げられるピースで、深みや意味、あるいは時間や構造は、層それ自体にはなく、重ねられ方の効果として、層と層との間の空間に宿るのみだということになる。
(高橋洋の「虚の(フェノメナルな)透明性」に対する七里圭の「実の(リテラルな)透明性」という話は、ほとんど口から出まかせみたいな思いつきなのだけど、『わたしはあなたじゃない』を観ると、『ザ・ミソジニー』だけでなく『同志アナスタシア』との、なんというのか、反転的類似性、類似的反転性のようなものを感じて、ちゃんと考えるべきなのかなあという思いが少しずつ強くなる。)
⚫︎AIによって、わたしの欲望、あるいはわたしの生が「先取りされる」という感覚と、80年代の吉本隆明が展開していた世界視線や、柳田論における、あらかじめ大きな歴史に包まれてあるというような「懐かしさ」(内容ではなく懐かしさを感じさせる文体の問題)とを結びつけるという山本浩貴の話は、話の大枠が示されたくらいの感じだが、大他者や第三者の審級のようなものが失われた後に、その場所をAIが取って代わるとすれば、象徴界を権威的に支えるというような役割ではなく、概知のわたし(AI)から生きている未知のわたしを「先取りされる」という形になるのではないかという感じは共感するところがあった。それはやはり、父的権力というより母的権力であるように思われる。
ここで思い出されるのが、ウィニコットによる「程よく良い母親」という概念だ。腹を減らし、その度に母の乳房が現れることが繰り返される子供の経験は、空腹という感情を乳房という表象(想像)で表現することにつながる。そこで程よく良い母親(要するに「普通の人」)においては、注意深く見守りつつも完璧に子供に対処することはできないので、子供の空腹=乳房表象と、実際にミルク(乳房)を与えるタイミングの間に、一定のズレが生まれる。この程よいズレにより、子供は、表象(欲望)と現実(対象)が切り離された別のものであることを認識し、同時に、(ある程度は表象と現実が同期するので)表象(欲望・意思)によって現実に介入することが可能である(願いは叶う)という自らの能動性への信頼を得る。つまり「欲望すること」が可能になる。完璧な母が、空腹と乳房のタイミングを完全に一致させたとしたら、欲望と現実が一致してしまうので欲望することはできず、悪い母親が子供の空腹のタイミングと全く無関係に乳房を与えると、子供は自分の欲望と現実の関係性を見出せず、世界への能動性を信じられず、欲望することができない。
ここでAIによる、より完璧な先取りする母を考えるとどうか。母は、子供の空腹の徴候を子供自身よりも早く察知し、子供が空腹を意識し、乳房を表象するよりも早く乳房を与える。このとき子供は、現実の乳房の出現によって(乳房の出現よりも遅れて)、初めて自分自身の空腹(欲望)を知る。いや、空腹や欲望を意識することすらなくただ機械的に現実に従うだろう。もしAIの予想が完璧であるならば、わたしにはAIの適切すぎる提案に抵抗することはできないし、抵抗する意味があるのかそもそもわからなくなる。しかしそのとき、わたしには欲望もなければ意思もない。ベルクソン的な意味での遅延が許されない。わたしは、わたしの前を歩く「既に知っているわたし」の影でしかなくなる。このような状況で「生きる」ために何かすることが可能なのか。
(AIは「統計でしかない」という人は、統計の持っている恐ろしい力を舐めている。我々の生きている古典的物理的現実は、ほぼ統計でできているようなものだ。)
これはもちろん極端な思考実験にすぎず、天気予報が完璧に当たることが決してないように、AIの統計計算が完璧に未来と重なることも決してないかもしれない。ましてや地震の予知となるとまったく充分でない。しかし、現在の天気予報は、一週間後の天気はあまり当たらないとしても、明日の天気はほぼ当たる。我々はそのうち、天気予報のズレ程度のなけなしの欲望、なけなしの自由意志しか持てなくなるかもしれない。
だが、こういうことを、わけ知り顔で(古典的人間観を見下すようにして)、あるいは大仰に絶望的に、語るのはとても恥ずかしいことだ。我々は未だ、恥ずかしいくらいに「人間」だし、みんなもう少しくらいちゃんと真面目に「人間」から脱する努力をすべきだとさえ思う。しかし同時に、上記のような感触を気にしないでいることも難しい。