●「新潮」で磯粼さんが蓮實重彦と対談してる。磯粼さんと蓮實重彦が一緒にいる場面を想像すると、なんか可笑しくて笑える。
●(ちょっと昨日のつづき)はじめから三項関係がある(例えば、母子の密着的な鏡像的・想像的な関係においても「想像的ファルス」が機能しているので三項関係である、とか)というのと、二項関係のなかにそこから必然的にズレが生じる構造が内包されている(例えば、子にとって母は、現実的乳房と象徴的母とに分裂している、とか)というのとでは、たんにニュアンスが違うというだけにとどまらない違いがあるように思う。
はじめから「三項」が確定的にあるというのと、純粋な二項関係はなく、「二項」は必然的に「三項」へ向けてズレてゆく、というのとでは違う。後者において「三項」は前提とされていない。それは、二項関係は、三項関係へと安定化することなく、破綻することもあり得る、あるいは、ひたすらズレつづけていってややこしいことになる、こともあり得るということだろう。
子供は、何もないニュートラルな場に生まれてくるのではなく、ある期待のなかで生まれる。それによって子供は「子宝」というような意味での想像的ファルスとなる。エディプスの最初の段階において、母にとって子は、現実的な子供であると同時に想像的ファルス(子宝)である。そしてその時、子にとっての母も、現実的乳房であると同時に、想像的ファルスである(正確には、子にとっての想像的ファルスは、象徴的母の現前と不在の理由である母の欲望の「対象」を指す)。このように、二項関係から分裂してゆく余剰としての想像的ファルスが、後に構造のなかに「ファルスを所有する者」としての「父」を呼び込む三番目の項になる。
ここで、母にとっての想像的ファルス(子宝)と、子にとっての想像的ファルス(糸巻きのように現れたり消えたりする象徴的母の行動の原因となる欲望の対象である何か)は食い違っている。母にとっての想像的ファルスは社会や家族関係のなかにあらかじめあると言えるが、子にとっての想像的ファルスが機能する(子が、母の現前/不在のリズムの背後に「欲望」を読みとる)という保証は事前にあるわけではない。結果として、ほとんどの場合そのように機能するのだ、ということが事実だとしても。
(それを本能的、動物的な「愛」によって説明しようとするならば、なぜ人間だけが現実的乳房と象徴的母へと分離させるのか分からなくなる。)
浅はかなラカン批判をしようとしているのではなくて、はじめから「三」を確定的な構造として前提にするのではなく、「二」が「三」へとズレ込んでゆく(あるいはそれに失敗する)過程についての記述と考えた方が面白いのではないか、というだけのこと。「二ではなく三なのだ」と言うより、「二は決して二に収まらない」と言った方が面白いのではないか、と。