●五十年代のラカンはクラインの対象関係(前エディプス期)を批判する。『人はみな妄想する』(松本卓也)では次のように書かれている。
クラインは、妄想分裂ポジション(3〜4ヶ月)の時点では子供は、母親を統一された対象とは把握できず、その関心は乳房などの部分対象に向いていて、それは例えば、自分を満足させてくれる「良い乳房」と満足を阻害する「悪い乳房」に分裂しているとする。それが、抑うつポジション(4〜6ヶ月)に移行すると、その「良い乳房」と「悪い乳房」が同じものであり、それが両価性をもった(良くもあり、悪くもある)「母」という一つの存在へと統合される、と。
対してラカンは、現実的対象として欲求を満足させる「乳房」と、ネガとポジとが統一され、両価性をもつようになる象徴的対象としての「母」とは別物であり、決して統合はされないとする。
そもそも、「ポジティブ/ネガティブ」「+/−」といった両価的な対立概念の操作――良いの反対が悪いであり、−の反対が+であるという概念操作――は、象徴的な操作である。だから「母」が両価性をもつとしたら、それは象徴的な対象であることになる。対して、部分対象としての乳房が子供に快を与えるとして、それは単なる快(個別的な、それ自体としての快)であって、対概念としての「不快」をその裏に宿している(セットになっている)ようなものではないだろう。
ラカンは、現実的対象=乳房は、快への「欲求」に応えるが、象徴的対象=母は、愛への「要求」に応えるとする。
欲求を満足させるものとして現実的対象=乳房があるとして、その満足が阻害された時、そこにあらわれるのは「悪い乳房」ではなく「想像的損失(「愛」の損失)」であり、その背後には既に、愛を「与える(存在する)/与えない(存在しない)」という両価的な対象としての象徴的母がいるのだ、と。この時、乳房と母とは、母が授乳という行為を行う「動作主」であるということによってつながってはいるが、現実的-乳房が象徴的-母へと統合されることはない、と。乳房は「欲求」を満足させ、母は、その現前によって子への愛の証を与える――愛の「要求」に応える――という別の機能をもつ別の次元の対象なのだ、と。
(生物学的な「欲求」――正確には「欲求の満足」を求める要求だが――つまり現実的な「乳房」への希求と、象徴的な「愛の要求」つまり「母」への希求という二重の希求があり、その間のズレから「欲望」が生じる、というのがラカンの主張だ。)
ここでラカンは、子供にとっての最初の「大他者」である象徴的な母が出現する以前の状態、クラインが「妄想分裂ポジション」と呼ぶ時期については語ることができない(あるいは、語る意味がない)、と言いたいのだろうと思われる。そもそも、それがたとえ切り離されているとはいえ、「良い乳房」「悪い乳房」という象徴的な対立概念を、象徴化する以前の子供の状態を語るものとして使用してしまっている(象徴化前の状態を象徴化後の状態から事後的に投射してみてしまっている)という点で、クラインの説明には問題があると言える。
つまり、象徴化以前の(前エディプス的な)母-子の密着的な二項関係(対象関係)を語ろうとしても、それは既に三項関係(子・現実的対象としての乳房・象徴的対象としての母)の短絡的圧縮になってしまっている(現実的対象と象徴的対象という階層の違いを潰してしまっている)のだ、と。二項関係は、象徴化以後から遡及的にみいだされる想像的なフィクションになってしまわざるを得ない、と。
おそらく、ここで言われていることは、三項関係以前は「語れない」、それを二項関係として語ろうとすれば必ず嘘(間違い・作り話)になる、ということだろう。ここに、象徴化以前の前エディプス期の対象関係を重視するクライン派と、エディプスコンプレクスを重視するラカン派との大きな違いがあらわれている。
とはいえ、ラカンがここで問題にしている「子・現実的乳房・象徴的母」という三項関係は、クラインが「抑うつポジション」としている時期に対応しており、象徴化が既になされているとはいえ、「父」が問題となるより前の前エディプス期である(「人はみな…」によれば、この時期はフリュストラシオンと名付けられているという)。だとすればこれは、限りなく二項関係に近づこうとする三項関係の構造の抽出であり、いわば、二項関係と三項関係を媒介する、その中間的なありようを追求したものと言えるのではないか。
何が言いたいのか。ラカンは、子・母・父という三項関係(エディプス)こそが常に問題であり、子・母という二項関係(対象関係)は偽の問題である、ということが言いたいのではなく、はじめにある子と母の二項関係のなかに、既に三項関係を導いてしまうような「萌芽的構造」があるのだ、ということを言いたいのだとみるべきではないか、ということ。二項関係(対象関係)のなかに萌芽的、潜在的三項関係の構造(乳房と母の分裂)があるからこそ、そのおかげでエディプス的三項関係の構成(父の導入)が可能になるのだとすれば、父がなくても三項関係は可能であることになり、より根源的なのは、むしろ(あらかじめズレを含んだ)二項関係の方だとさえ言い得るのではないだろうか。
(「授乳する母」という階層性の破れた――ズレ込んだ――対象が、二項関係と三項関係を媒介している、と。)