「夢と覚醒のあいだ」より

●暑さのせいか、何の前兆もなく、デジカメが壊れた。電源をいれてもディスプレイが真っ黒なまま。
●引用、メモ。『精神分析現実界』(立木庸介)、第五章「夢と覚醒のあいだ」より
●《ところで、いま私たちが述べた相関関係、つまり、対応する表象を持たない現実界と、欠如した表象の代理を務める表象との間の相関関係は、必然的に偽である(この「偽」は論理学的な意味で、すなわちひとつの「真理値」として、理解されてよい)。なぜなら、この両者の間では、指示関係が根本的に損なわれ、歪められ、本質的に模造的」であるからである。そして、まさにこの相関関係の偽りこそが、夢の映像を記号の身分からシニフィアンのそれへと、つまり、その本質的な空虚さにおけるシニフィアンという身分へと、引き上げるのである。》
ラカン的主体とは、根本期に二つの部分へと分裂した主体である。象徴的同一化によって、主体はひとつのシニフィアンとなり、それ以後自らをシニフィアンにおいて捉えようとする。しかし同時に、疎外の演算によって、主体の「存在」---ラカン自身がさしあたってこう呼んでおくにすぎないと述べているところの「存在」---は失われ、ひとつの欠如とならざるをえない(この喪失は象徴的同一化の条件ですらある)。》
《さて、ラカンが一方で「表象の代理」の機能を一次過程の不可能としての現実界に関係づけ、他方ではそれをこのように「主体」(分裂した主体)へと結びつけているのであれば、私たちは現実界と主体の欠如との関係を検討してみなければならない。現実界とは、結局のところ、主体自身のなかの「下敷きになった」部分のことではないか。ラカンが「欲動の無頭の主体」と述べるとき、それが指し示しているのは、主体のこの現実界の部分にほかならい。私たちは、ここにおいて明らかに、フロイトの欲動論に出会うことになる。》
《すなわち、主体自身のなかにある現実的なもの、それは「欲動」にほかならない。それだからラカンは、この夢を解釈しつつ、最終的にこう告げるのである。目覚めさせる現実界、それは欲動である---より正確には来るべき欲動である、と。》
《「来るべき欲動」、これは、現実界というもののあり方を名ざすきわめて積極的な規定であるといえる。ラカンはここで、「現実界とは(シニフィアンによって組織された世界の)不可能である」という形式的な定義から明らかに一歩先に進もうとしている。なぜなら、現実界フロイトの欲動に関係づけるとき、ラカンは、たんに一次過程にとって到達不能な点の捉え難さを問題にしているのではなく、むしろ、一次過程によってはけっして満たされぬものから発する絶え間ない圧迫、一次過程のなかでまどろむ主体のもとにつねに迫り来ようとする根源的な享楽を、考えているからである。》
《「現実界、我々はそれを、夢の彼岸に求めなければならない----つまり、代理しか与えられていない表象の欠如の背後に、夢が抱き込み、抱え込み、我々に隠してしまったもののなかに求めなければならない。」》