●今、どんな映画がかかっていて、どんな展覧会が行われているのかの情報を全然知らない。本屋にも立ち寄っていない。(近所の古本屋を除く。)いろいろと見たいものを見逃してしまっているように思うのだけど、今はちょっと、書いている原稿の先行きが見えないと、なかなか、情報を調べたり、外へ出かけたりする気になれない。(時間がないわけではなく、気分と、あとお金の問題。)毎日、駅前の喫茶店へ出勤する日々。リンチの新作はまだ当分やっているのだろうか。ジャ・ジャンクーの新作の公開はもうはじまっているのだろうか。山下敦弘は結局見逃してしまったのか。テレビをつけたら、『サッド・ヴァケイション』のスポットが流れていた。
●とはいえ、近所のレンタルビデオ店には頻繁に通って(近所にしか出歩いていない)、最近はほぼ毎日一本というペースで、深夜から朝方にかけて、ビデオやDVDで映画を観ている。『ロスト・ハイウェイ』(デヴィット・リンチ)を久々に観た。やはりリンチの新作は絶対に見逃せないと思った。リンチは決して天才的な映画作家ではなく、むしろ、長い時間かけて少しずつ、自身の欲望に対して「厳密に忠実な」作品の有り様を追求しつづけ、実現しつつあるような作家のように思われる。(初期の『エレファント・マン』や『デューン 砂の惑星』などは、ぼくには退屈で、未だに最後までは観ることが出来ていない。)『ブルー・ベルベット』や『ツイン・ピークス』ではまだ、既にあるフォーマットに、どれだけリンチ・テイストを染みこませることが出来るか、といような段階だったと思うけど、おそらく『ワイルド・アット・ハート』で、自身の欲望の有り様にフィットした形式の一端を掴んだのではないだろうか。「あ、これでいけるんだ」と。(はじめて観た時には、これは一体どのようなの冗談なのだろうかと思ったけど。)
●リンチの映画は別に何も難しいことはない。別の人物が同じ人物でもあり得て、同じ人物が別の人物でもあり得、一人の人物が同時に複数の場所に居ることも出来るし、時間が流れることもない(循環的、円環的な時間なのではなく、複数の時間が、重なったり束ねられたりするし、何度も反復する)、という世界を受け入れることが出来れば、ごく当たり前に受け入れることが出来る。そもそも人間の無意識というのはそういう形式になっているのだから、それは突飛な世界ではなく、むしろ現実的な時空の秩序よりも、我々にはかえって親しい世界であるはずなのだ。(しかしリンチ自身が長い間、映画という形式による表現おいて、時間や空間の秩序に強く捕われていた。)そもそも、自分の、自分に対する同一性ですら、外的な対象や出来事との参照がなければなりたたない。(夢のなかでは、ぼくは自分が女性であっても、自分が何人もいても、それを不思議には思わない。)
一旦それを受け入れることが出来れば、あとは、それぞれの細部が、リンチにとっての、他と取り替えのきかない、それ以外ではあり得ない「厳密さ」の密度を、どの程度の深さにまで届いてもっているのか、ということを味わうことみが、おそらく問題となる。例えば『ロスト・ハイウェイ』の最初に出て来るジャズ・ミュージシャンの顔。骨格の上に、いかにも不安定に肉がのっかっているような顔で、この顔なら、いつ「顔面崩壊」が起こってもおかしくない、と、視覚的に納得させるような絶妙な顔をしている。特に、サキソフォンを吹いている時の頬を膨らませた顔や、警官に殴られて目の上のあたりを腫れさせた顔など、今にも顔の肉のすべてがずり落ちてきそうだ。この顔であるからこそ、別の人物と入れ替わってしまうという出来事があったとしても、それをリアルに受け入れられる。この映画の全てが幻想であり幻覚であると言ってもよいのだが、だからこそ、その細部の一つ一つが「そうでしかあり得ない」という厳密にリアルな感触(濃厚な徴候)を持っている必要があるのだ。
この映画のなかで唯一現実的なことはおそらく、ある男(誰か)が、妻の過去への不審から、妻を殺してしまったという出来事、あるいは、妻の過去の関係者すべてを殺してしまいたいという欲望であるだろう。そう思っているのは映画の外側にいる「誰か」であって、登場人物のジャズ・ミュージシャンであるとは限らない。(この、成功したミュージシャンの姿さえ、その「誰か」の、「自分はこうありたい(こうであるべきだ)」という像かもしれない。そのことは、このミュージシャンと入れ替わった人物が、決して裕福とは思えない自動車修理工であることからも察せられる。この「誰か」はむしろ、こちらの人物がいるような環境で生きているような気配も感じられる。そしてその妻もまた、映画の人物のように美しい人であるとは限らない。そもそもこの映画では、誰かが特定の誰かである保証などどこにもなく、全てが幻想であり、粉飾されたものなのだから。ただ、「(妻への強い欲望=愛=執着とうらはらな)妻への不審」と「殺人」という出来事のみがある。)そして唯一の「現実的なこと」である、「妻を殺す」場面は、この映画にはない。あるのは、粗い粒子のビデオ画面による、既に殺されてしまっている妻の死体であり、我々は(あるいはその「誰か」は)、それをどこか遠くの出来事として、出来事の気配としてしか(つまり、自分以外の者によって撮影された、粒子の粗いビデオ画面のようなものとしてしか)感じられない。しかしだからこそ、その不鮮明さ(不透明さ)において、そこに何か決定的な出来事が起こってしまったのではないかという不安や恐怖を逃れることが出来ない。決定的な出来事そのものは、表象されない。
この映画を観て思ったのは、リンチにおいて「泣く」という感情の特別さだ。いや、人が泣いている姿を観る時に喚起される感情と言うべきか。しかしそれは、「自分が泣く」ことと区別出来ない。この映画で、自動車修理工の青年の両親は、自分の息子の前で「あの日」のことを思い出して泣く。何故泣くのか、「あの日」に一体何が起こったのかは、まったく説明されない。しかしおそらく、「あの日」の息子を、そしてそれをまったく憶えていない息子を、不憫に思って両親は「泣く」のだ。このシーンは、ぼくにとってこの映画で最も印象的なシーンだ。ここで泣いているのは誰なのか。おそらく、非人称的な「誰か」が、妻を殺してしまった「誰か」を、さらに殺されてしまった妻を、あるいは世界のあらゆる出来事を、不憫に思って「泣く」のだ。そして「泣く」ことは実は、泣いている人をこそ最も深く慰める。ここには、妻への不審と殺人とはまた別の、映画の外側からやってくる「何か」があるように、ぼくには感じられる。そういえば、『マルホランド・ドライブ』でも、映画が反転する劇場のシーンで、主人公の二人は、ただ泣いていた。