07/10/12

●もうちょっと『インランド・エンパイア』。昨日、ローラ・ダーンが口にする「死んだ息子」について触れたけど、この息子が実際に生まれたのかどうかは怪しい。まあ、そんなことを言えば、この映画の出来事のことごとくが怪しいのたけど。女が夫に子供が出来たことを告げ、男は自分には子供が出来ないのだと言う。つまりこの子供こそが妻の裏切りの証拠となる。ここから夫の暴力がはじまるのか、それとも以前からあった暴力が女に裏切りをさせたのか、あるいは裏切りなど本当はなかったのか。時間的な順序が関係ないどころか、人物の同一性さえ定かではないこの映画の世界では、それらのことは皆あやふやであるに留まる。ただ確かなのは、「ある女」が、「子供が出来た」と言い、「子供が死んでしまった」と言ったことであり、つまり、本当に子供が出来たのか、ただそれを望み妄想しただけなのか、生まれたとして子供の死は何によるのか(堕胎であるかも知れない)等はともかく、子供の存在とその死を強く意識した「ある女」がいたということだろう。(そしてその「ある女」は、夫と子供と和解すること、彼らに「天国」で迎え入れられることを強く望んでいることは「確か」なのだ。)あらゆることが定かではなく、イメージさえ、いい加減に撮影しているとしか思えないこの映画で、リアルなことと言うのは、そういう風にリアルなのだ。誰が誰を殴ったのかは定かではなくても、そこに確実に「暴力の気配」だけはあり、誰が誰を裏切ったのかは定かではないが、確実に「裏切りの気配」はあり、誰が誰を殺したのかは定かではないが、確実に「殺人の気配」だけはあるのだ。(そして最終的には、誰でもない誰かとしての「ある女」の死があるように感じられる。)具体的な事柄を、具体的なイメージを使って示すしか無い映画で、具体性を後退させて、徴候のリアリティを示そうとするからこそ、この映画の錯綜した構造や、一見たんにだらしないとしか見えないイメージ(カメラと対象との距離が適切だと思えるショットがほとんどないということは、適切な距離を正確に「外している」ということだろう)の垂れ流し的持続が必要となるのだろう。中盤の構成のゆるみのようなものも、そのために必要なのかもしれない。
(昨日の日記で、すべての女性が「顔のない後ろ姿の女性」に収斂されるというようなことを書いたが、それはちょっと言い過ぎで、「世界の掟」の側に居る人物、テレビショーの司会者やホームレスの黒人女性、裕木奈江などは、後ろ姿の女性(ある女)へとは重ならないだろう。)
誰でもない誰か、誰かと特定され名指される以前の「ある女」の「頭のなか」のあり様が、ほとんど無時間化された構造のなかで示されるという意味では、『マルホランド・ドライブ』と同じだと言える。しかし、『マルホランド・ドライブ』では、その「ある女」の仮の形象が、ナオミ・ワッツとしてほぼ安定していた。『インランド・エンパイア』では、ある女は、ローラ・ダーンの二つのペルソナであり、彼女を殺そうとする女でもあり、彼女の家に訪ねて来る老女でもあり、彼女を取り囲む娼婦たちでもあり、誰だか分らない祈っている女でもあり、ポーランドの女でもあり、テレビを観て泣いている女でもある。つまりある女の「誰でもなさ」がより増している。『マルホランド・ドライブ』では、夢(妄想)や回想を位置づける、現実の現在という地平が、ほんの僅かとはいえ存在するのだが、『インランド・エンパイア』では「現実の現在」という基底的な次元がなくて、あらゆる次元が相対化されている。後ろ姿の太った女性は、あらゆる「ある女」を一つに収斂させ得る僅かな徴としてその身体的現前を示すのみで、確固たる現実的時空を構成するところまではいかない。(だからこの映画に「現在」という時間があるとすれば、それは「ある女」の「死のはじまり」から「死の完成」までの一瞬ということになろう。その一瞬のなかに、だらだらと三時間もつづくともいえるこの映画の全構造が凝縮され収斂される。)この映画には、様々な次元の関係のみがあって、それが着地する「地面」がない。だがそれによって、徴候が徴候として、それのみで際立つのだと思う。