●『ホーリー・モーターズ』(レオス・カラックス)をDVDで。これ、近所のツタヤではホラーの新作のところに挿してあって、えっ、もしかしてカラックスがホラーを撮ったということなのか、と、ちょっと期待したけど、そういうことでもなかった。
これは確かに不思議な、ちょっと奇跡的と言ってもいい映画だとは思った。カラックスから、いい感じで「力み」が抜けているというか。ただ、あまりにも感傷的で、あまりにも後ろ向きで、まあ、カラックスという人はきっとそういう人なのだろうから、そこに文句を言う気はまったくないのだけど、ぼくとしてはどうしても乗り切れないなあという感じは最後までありつづけた。
(ぼくはそもそもカラックス的な感傷性は苦手で、本当に面白いと思ったのは『汚れた血』だけだ。いや確かに、学生の頃に初めて『ボーイ・ミーツ・ガール』を観た時には驚きはしたけど。)
正直、最初の方はまったく面白いと思えなくて(出だしはすごくかっこいいのだけど…)、これは一体どういうことなのかと思っていたのだけど(モーションキャプチャとメルドの部分は、ぼくにはまったく面白くない)、しばらく見ているうちに、まあ、これはこれでいいのか、ただドニ・ラヴァンを見てればいい映画なのかと思えるようになって(ここでもう、映画は半分くらいまでいっている)、そう思えるようになったとたんに引き込まれるような感じになって、ぐっと魅力的だと思えるようになるのだけど、それと同時に、この重ったるい過度な感傷にはついていけないという感じもずっとあって(例えば、カイリー・ミノーグの場面は素晴らしいのだけど、最後に自殺させるところでかなり引いた)、とまあ、いろいろもやもやしながら観つづけるのだけど、最後まで観てしまえば、これはかなりすごい映画だったのではないかと、納得させられはする。
(例えば、モンテ・ヘルマンの『果てなき路』とか、リンチの『インランド・エンパイア』などを想起させはするのだけど、この映画がそれらとはまったく感触が異なるのは、カラックスは話法の複雑さが前景化するようなやり方はとらずに、あくまで個々の場面のクラシックなメロドラマ的感傷性を前面に出すところだろう。それと、ここには、ドニ・ラヴァンという俳優との鏡像的共犯性が決定的なものとしてあるということ。)
自分は、新しいものなどには目もくれず、自分を育んでくれた「ある文化圏」のなかで自らの生を全うするのだという徹底した態度の、強さと美しさと依怙地さが、陳腐な言い方だけど、珠玉というしかないような形であらわれていると思う。ただ、ここには新しさに向かう姿勢とか、刺激的なものとかは見つからない(でも、クラシックな感傷をたんなるノスタルジーの対象にはしないような、「現代」に対する高い形式的緊張はある)。勿論、刺激的なものをつい求めてしまうぼくの方が、よくない何かに毒されているということかもしれないのだけど。
とはいえ、まだ五十代であるカラックスが、こんな遺言みたいな雰囲気の映画をつくってしまうことに対して、肯定し切れない感じはどうしても残ってしまう(もっと違う形に展開し得る要素はたくさんあったと思う)。「恐ろしい子供」と言われたカラックスが、「子供」でなくなった途端、いきなり「遺言」になってしまうのか、と。