天気の話/相米慎二の死

●不安定な天気。割合明るい曇り空から、いきなり多量の水が落ちてくる。しかしそれはほどなく小雨にかわり、サラリとやんでしまう。湿って乱れた風が空気中に混じり込み、目には見えないマーブリング模様をつくる。吹き荒れる風が木々の枝や葉を不均一に揺り動かし、しかしいきなりピタッととやむ。空気の動きが全くなくなる。そこに湿り気がじわじわと染み出すように拡がる。また、雨がどっと落ちてくる。荒れた降り方だ。雨粒の大きさも均一ではないし、濃度も降ってくる方向のてんでバラバラだ。その雨もまた、すぐに力を失い、かすれたように消えてゆく。空気に不穏な感じが残る。台風が近づいている。腰痛持ちのYさんは、とても調子が悪そうだ。

気象が人間に与える影響は、絶大で、何か決定的なものがあるように思う。もともと生物は、ある特別な気象状況のなかでしか生まれ得なかったのだし、ある限定された気象条件のもとでしか、生き続け、存在しつづけることは出来ない訳だ。時間とか、あるいはリズムという観念も、ある一定の気象状況が反復的に回帰することから生れた訳だろうし。子供の頃のぼくは、朝からどんよりと曇っていて、学校へ行く途中あたりから軽くパラパラと振りだして、午前中のうちに教室の窓から見える風景を覆ってしまうくらいに雨がサーッと降ってきて、教室のなかに雨の湿った匂いがどこからともなくスーッと拡がってくる、という天気に弱かった。弱かった、と言うのは、そうなるとほとんど条件反射のように、身体全体が悲しさに貫かれてブルーに沈み込んでしまい、ほとんど泣いてしまいそうになるのだ。このことを人に話すと、お前は何て感傷的なガキだったんだ、と鼻先で笑われ、そんな「感性」はいらねえよなあ、とバカにされるのだけど(まあ、それももっともなことのだけど)、これは「感性」の問題なんかじゃなくて、もっと存在論的なと言うか、ぼくが存在してしまっている物質的な前提と関係があるようなものなのではないだろうか。何と言うのか、この時ぼくが感じていた「悲しさ」や「感傷」には全く何の理由も対象もなくて、つまり何の意味もないもので、しかし何の意味もないからこそ、その「悲しさ」や「感傷」こそが、ぼくが感じるあらゆる場面での悲しさや感傷という「感情」の基底をなすものなのではないのか。そしてそれは決して抽象的なものではなくて、ある具体的な気象状況と、そのなかにいる僕の身体との関係に結びついたものなのだ。(その条件下での、ぼくの身体に具体的な反応として現れたものとしての「感情」)つまり感情と言うのは、ある気象(暑いとか寒いとか湿っているとか乾いているとか風が強いとか、それら諸々の混合体)に対して身体が示す様々な反応によって生じたノイズが、心的な領域に染み出てきたものが元になって出来ていて、だから感情とは唯物論的なものなのだ。まあ、そういう大げさな物言いはとにかくとしても、ぼくはとても「お天気」に左右されやすい人間なのだ。(昔、中学生くらいの頃、たしか栗本慎一郎の本を読んでいて、「自分は根源的なことにしか興味がない。だから例えば「お天気」の話などには全く興味を持てない」みたいな事が書いてあって、多分これは私小説な何かの描写についての批判だったように思うのだが、それに対して、だって「お天気」ってスゲー根源的なことじゃんか、と随分反発を感じたのを憶えている。いや、当時栗本氏の熱心な読者だったんで。)

相米慎二が亡くなった。台風情報を観ようと思って、つけたテレビに相米の顔が映っていたので、何かヤバい事件でも起こしたのだろうか、と思ったら亡くなっていたのだった。9月1日の日記で『風花』について書いた時には、まさかこれが遺作になるとは思ってもみなかった。90年代に入ってからの相米の作品については、やや冷めた態度をとらざるを得ないのだけど、相米がぼくにとって最初の映画作家であり、青春の映画作家であることにかわりはない。特に『ションベン・ライダー』は、80年代日本映画の産んだ最良の作品の一つであることは当然のこととして、あくまでぼくの「個人的な体験」として言えば、「80年代」とか「日本映画」とか、あるいは「映画」とかいう限定をとっぱらって、この映画を観てしまったことが、ぼくの人生のなかで最も重要な出来事の一つである、と言ってもいいくらいに貴重な作品なのだった。ビデオで観たのも入れれば、おそらく30回以上は観ているだろう『ションベン・ライダー』を、今、改めて観直そうという気にはなれないけど、とにかくとても動揺しているのだった。