ジャ・ジャンクー『世界』をDVDで。ベルトルッチとつづけて観ると、どうしても「希薄」な感じはしてしまうのだが、しかし、これはベルトルッチ的な「映画」とはまた全く違ったところで、「映画」を成立させようとしている。例えば、終盤、主人公の同僚の結婚パーティーのシーンで、ポップな内装のレストランで大勢の若者たちがにぎわい、パーティーが盛り上がっている時、そのレストランの大きく開けたガラス窓の外には、すぐに交通量の多い道路があって、建築資材を乗せた大型のトラックが乱暴に行き交っているのが見える。その両者が、同じフレームのなかに納まっているのを観て、ああ、これが「現在の中国」なのだと感じ、そしてこれが「映画」なのだと思う。あるいはラスト近く、新婚旅行で留守にしている同僚のアパートに主人公がひきこもっていて、そこを主人公の恋人が訪れるシーンで、恋人が外から部屋のドアをノックすると、湿って籠った音がコツコツと鳴り、カットがかわって、主人公のいる室内にカメラが入ると、その同じノックの音が、こんどは乾いた響く音で、再びコツコツと響いた時、屋外と室内との音の響きの違いを拾うという、たったこれだけのことなのだが、ああこれが「映画」なのだと感動する。
以前にも書いたことがあるのだけど、ジャ・ジャンクーの映画は、「世界は個々の人間の感情とはまったく関わり無く動いている」という事実と、しかし「人間は世界が感情とはまったく異なる動きをしているという事実をどうしても受け入れることが出来ない」という事実の「重ならなさ」によって成立しているように思う。そしてそれを、ベルトルリッチのような壮大な(大げさな)ドラマとしてではなく、あくまで画面と音との組み合わせによってつくっている。ジャ・ジャンクーの映画を観ていると、七十年代の日本の青春映画(神代辰巳とか藤田敏八とか)に近いにおいを感じる。しかし、一方でそのようなウェットな感傷を漂わせつつも、その感傷を残酷に断ち切ってしまうような圧倒的な(人間の感傷のスケールを超えた)「(音も含めた)風景」が、画面に侵入してくる。(以前、『世界』について書いたもの。「風景と情との乖離」http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sekai.html)
●あと、昨年末から見続けていた『すいか』のDVDを最後まで観た。ぼくはこのドラマを観ていて、小泉今日子が出て来る度に冷静ではいられなくなって泣いてしまうのだけど、それは、どうやらぼくが、このドラマの小泉今日子に自分自身の姿を投影しているかららしいと気付いた。最終話で、小泉今日子小林聡美に飛行機のチケットを見せて、一緒に外国に逃げようともちかけるシーンでは、小林聡美が「ハピネス三茶」での生活を捨てるわけがないと知っているから、もう本当に胸がかきむしられるような何とも言えない感情に襲われるのだった。このドラマの脚本家は、なんて残酷なシーンを平気で書くのだろうと思った。というか、このドラマ全体、かなり残酷な話だと思う。