ベルトルッチ『1900年』をビデオで。300分以上、どこを切っても映画がぎっしりと詰まっている。こんなに「濃い」映画はそうそうは観られない。ベルトルッチと比べれば、ヴィスコンティとかフェリーニとかは断然「薄い」。この映画は、あまりに空気が濃くて呼吸困難になってしまうというくらいに濃い。ベルトルッチは、映画作家としてやりたいことの全てをこの映画に投入しているようにみえる。これ以前のベルトルッチは、自分を「芸術家」だとする自己規定のなかで映画を撮っていた感じにみえるのだが、『1900年』では、そのような自己規定はうっちゃられて、下品になるのも厭わずに、徹底して自分の欲望に忠実にやりたいことを抑制抜きでやり切っている感じがする。その結果、コミュニズムに対する態度がよくわからなくなっててしまって、最後の方がぐたぐたになってしまうのだけど。(ドパルデューがいきなりカメラ目線で演説をはじめるのには驚く。)そして、さすがのベルトルッチも、この映画でやりたいことの全てを出し尽くしてしまったという感じで、フィルモグラフィをみると、これ以降の作品はぐっと「希薄」になってゆくのだった。
映画におけるコミュニズムの表象というのはだいたい、群衆シーンと、その群衆によって歌われる「歌」によってなされる。これは、ベルトルッチだけでなく、アンゲロプロスでも大島渚でも、そしておそらく黒沢清でもかわらない。そして、群衆と、彼等によって声をそろえて歌が歌われるというイメージは、「映画」において(映画史において)、最も美しく強いイメージをみせるものの一つだろうと思う。しかしもはや、そのようなシーンによって表象されるようなコミュニズムなど、誰にとっても信じられるものではなくなってしまった。それはつまり、誰もが、かつてのベルトルッチアンゲロプロスのような素晴らしい群衆シーンを撮ることはできなくなったということを意味する。実際、ベルトルッチの『ラストエンペラー』やアンゲロプロスの最新作(タイトル忘れた、「何とかの旅」)における群衆シーンは、かつてのように力強く美しいものではなく、通俗的なスペクタクル映像となってしまっているというしかないと思う。(ベルトルッチに関しては、それはそれで面白いし、そのだらしなく崩れて行く様それ自体が、それなりに美しいものだと思うけど、アンゲロプロスに関しては、えっ、ちょっとまって、それをや?ちゃっていいの、という感じで、すんなりは受け入れられない。ベルトルッチも『魅せられて』のだらしなさは好きだけど、『ドリーマーズ』みたいになってしまうと唖然とさせられるしかないのだけど。)
あと、コミュニズムの表象が群衆と歌ならば、もう一方、ファシズムの表象もまた同様に、群衆と歌によってしかなされ得ないということが、映画の皮肉な宿命であると思う。『1900年』では、その矛盾もまたはっきりと露呈していて、それがまたこの映画(ベルトルッチの)の凄いところでもあると思う。