●今日は、川村記念美術館にバーネット・ニューマンを観に行こうと思って早起きしたのだが、大雨が降っていて、天気予報でも一日雨だと言っていたので、延期することにした。しかし、十時前には小降りになった。でも、それから出かける支度をしたのではもう遅い。佐倉は遠い。美術館まで行って、帰ってくると、交通費が五千円近く(いや、以上だったかも)かかり、途中で一切飲み食いしないという禁欲的な行程で行ったとしても、かなり厳しい。でもニューマンを観ないわけにはいかない。
学生時代から何十年もあこがれ続けた人と、はじめて二人で会う、みたいな、怖いような気持ちだ。とはいえ、お互い、デートというには歳を取りすぎてしまったよ、という感じはあって、出来れば20年前、遅くとも10年前には会いたかかったよ、とも思うのだが。だが、これはあくまでぼくの人生上の問題であって、勿論、今の日本でニューマン展が成立するというそのこと自体は、奇跡のように唐突で、素晴らしいことなのだと思うけど。
カネフスキーのDVDボックスが出たのは知っているが、買えないので、レンタルしてきた『動くな、死ね、甦れ!』をビデオで観る。あらゆる場面、あらゆるカットが等しく強烈であり、あまりにリアルで、あまりに痛い。
戦後ソ連の収容所の街。靄に霞む、草も生えない貧しい土地に鉄道が走る。土の上に降った雪は、夜は凍っていて硬いが、昼間は溶けて泥となる。泥には肥溜めから溢れた糞も混じる。学生たちは校庭を糞を踏んで行進する。平らなところは無く、土は盛り上がり、えぐられ、凸凹である。石の家に隙間だらけの木のドア。人々は怒鳴るような大声で喋り、大勢でもみ合うように生活し、歌い、争い、盗み、盗み返し、文句を言い、運命を嘆く。土地と一体化しているかのような人々は、しかし取り残されたように皆孤独であり、自分のことだけで精一杯で、主人公の母が嘆くように「誰も私達を心配しない」。絶望の収容所からは日本兵の歌が聞こえる。モスクワから収容所へ連れてこられた男は、気が触れて、小麦と泥を混ぜた団子を食らう。そのような場所を、少年と少女が走り抜ける。少年は退学になり、母は絶望し、少年はさらに汽車を転覆させ、街に居られなくなって外へ逃げる。海辺の街に逃げた少年は、犯罪者たちのコミュニティに自分の居場所を得て解放されたかのようにも見えたが、彼らにとって少年は使い捨てのコマでしかない。そこへ少女が救世主のように現れ、二人は収容所の街へと戻ろうとする。しかし途中で犯罪者たちに見つかり、撃たれる。少年は重体で病院に収容され、少女の遺体が街へと運ばれる。母は気が触れて、全裸で箒に跨り、叫びながら通りを走る。
●『日本の夜と霧』(大島渚)をDVDで。久しぶりに観たのだが、無茶苦茶面白かった。これは、政治的な映画というよりも、ど青春映画で、人の、というか若者の、というか男の子の行動というのは、五十年前から現在まで、基本的にはまったくかわってないんだなあと思った。そこで語られる言葉(運動の言葉)は、今ではすっかり古くさくなってしまっているが、ある状況があり、ある集団(もしくは運動)があって、人が、そのなかでどのような立ち位置をとり、どのように行動し、どのように言葉を使い、どのように自己正当化するのか、という点は、今も昔もまったく何のかわりもない(言葉自体はまったく別物へと変化しても、その「使い方」のパターンは驚くほどかわらない、こんな奴いる、みたいな「あるあるネタ」としても、現在でも充分にみられる)。この映画はそのような、状況や集団の力学なかでの諸個人の行動のひな形を捉えていると言い得るような普遍性を有している。
六十年安保の話を六十年に撮るというあからさまな「現在」性(とはいえ、主に描かれるのは五十年代の破防法反対運動の世代の話ではあるが)と、ベルトルッチアンゲロプロスを先導するような革新的な作風(この映画がベルトルッチの『革命前夜』より四年も早く作られたということは驚くべきことだ)がみられる一方で、大島渚ドラマツルギーとしてはあくまで古典的な人なのだと思った(回想の挿入の仕方とかはけっこう普通な感じだし)。そして、この映画が捉えている人の行動様式の普遍性に驚嘆すると共に、「ほんとに何も変わってねえんだな」ということに、ちょっと絶望的な気持ちにもなる。いわゆる「革命の言葉」が有する「幻想の力(のリアリティ)」の退潮の感触を描いたとも言えるこの作品が(この作品は同時代の「運動」に同調するものではなく、むしろ革命−大他者Aに引かれた斜線のような映画だ)、どこかで、貴族の衰退を描くチェーホフの戯曲にも似た感触をもってしまうということは皮肉なことだと言うべきなのか(ただ、徹底して「男の子たち」目線だけの映画だけど)。
古典的とは言っても、あらゆる人物が相互批判をし、すべての人物の立場−行動が相対化されつづけ、誰一人として最終的な「正しい立場(特権的な位置、観客の感情移入の受け皿)」を得ることがない(弁証法的と言うより循環的相互批判)、という意味で、例えばこの映画より二年前につくられたブニュエルの『熱狂はエル・パオに達す』に比べても、政治的な映画としても決定的に新しいように思う。初期の大島渚って、やっぱすげえと思った。(この映画がつくられた年に小山明子と結婚しているし、大学を出て松竹に入社したという経歴もあるので、大島渚としては渡辺文雄が演じた人物に思い入れがあるのかもしけないけど。それにしてもこの映画の小山明子は美人過ぎる。)
映画撮影の細かい技術とか、よく分からないけど、この映画ではマイクの位置というのがすごく意識させられる。カメラも俳優も同じ位置にあって、俳優がセリフをしゃべっている途中で、音の聞こえ方(距離感)がすーっと変化したり、ふいに足音が際立つようになったりする。後から音を加工したというのではなく、長回しの、カメラの動きとマイクの動きが別々という感じ。