●以下は、15日の日記に対する上田和彦さんからの反論(http://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/20100916/p1)への応答です。とはいえ、上田さんの反論の趣旨がいまいちよく分からないので、勘所を外した、もわっとした、独り言みたいなものになっているかもしれませんが。あと、ぼくは、自分に対するどんな反論でもきちんと答える、なんてことはありません。上田さんは友達だから答えてるだけ。それと、これ以上の応答−展開はないです。あるとすれば個人的な(閉ざされた)場で。
●まず、書くことと、話すことと、描くことは、それぞれまったく異なった実践で、話すことと言っても、公式的、対社会的に何かをアピールするということと、ある程度前提を共有した者どうしで、ゆるく、ぶっちゃけた話をするということとも、まったく異なる。15日に書いた話は、今、ぼくは、ゆるく、ぶっちゃけた話としてしか出来ない話を聞きたいし、したいと感じている、ということに過ぎない。まあ、現状への反感のような感情が透けて見えてしまっているし、マニアック話を必要以上に正当化しようとしてしまっていることは事実だけど。でも、そのような感情が、ぼくが、ゆるく、ぶっちゃけた話こそを希求する理由でもあるのだ。
●正しいことは断固として正しい。それは繰り返し主張されなければならないだろう。正しさは、ただ正しさとして、粛々と追求されねばならない。正しさが正しいものである以上、人はけっきょくその正しさに「従う」しかなくなる。正しさは、出来ればそんなことは避けたいと思うような、面白くもおかしくもないうんざりする散文的過程(そのトライアンドエラー)の繰り返し、その果てしのない持続によってしか実現されない(それを私に強いる)。正しさは、一人の人間の存在などよりもはるかに大きい。だから、正しさの実現されるスパンは、一人の人間の生のスパンを超えている。世界は全体としては「正しさ」のもとにあるとしても、「私にとっての世界」は必ずしもそうとは言えない。正義はいずれ必ず実現されるとしても、私の生きている時間や場所においてそうであるとは限らない。だから、人は正しさを自らの生を生きる根拠とすることは出来ない。公的な正しさとは別の、世界との通路−絆を必要とする。あるいは、人を「正しさ」に結びつけるためには絆が必要となる。だから、正しさそのものと、それへの絆は別のものだ(科学者の探求に「鉄腕アトム」が必要である、というような)。そして、人が、正しさを根拠として誰かを批判する時、そこに必ず「正しさ」とは別の欲望や動機が作動していることに自覚的でなければならない。
●主体は、ある歴史的、地理的に限定された場所において作動する特定の権力装置に把捉されることで生まれる。主体は、権力装置の「効果」としてのみ生まれる。主体は(どのようなマイナーな主体も)、常に、既に、権力装置と共にある。権力装置(による調教、抑圧)がなければ主体はない。だから、原理的に言えば、主体的−意識的に権力に抵抗−闘争することは出来ない。これは、構造主義以降と言うより、精神分析以降には自明のことだと思う。しかし、権力装置が完璧に作動することもまた、あり得ない。さらに、ある権力装置が、一人の主体のなかに完璧に刷り込まれ、取り込まれることもない。装置は常にエラーを含み、主体もまた、常に装置からこぼれ落ちる。「一つ」の装置は、常に「複数」の力のモンタージュであるはずだから、それは常に逸脱や崩壊の危機とともにある(逆にいえば、一つの主体もまた、常に崩壊の危機と共にある)。だから、抵抗の根拠は、その装置そのものの作動のなかにしかない。装置そのものの作動(あるいは、作動を支える条件)という唯物論的過程、あるいは、装置そのもののもつ無意識の過程(権力装置は「誰か」によって意識的につくられるわけではない)のなかにしか、その装置に抵抗し、装置そのものを越え出る契機は見つけられない(しかしそれは、主体の崩壊の契機でもあり得る)。
●人は象徴界のなかで、大他者に捧げられた生を生きるしかない。しかし、大他者は最終的には(個別の)生そのものを支えられない。大他者の他者はいない。メタレベルのメタレベルはない。権威を保証する権威、正しさを保証する正しさはない。人は大他者の無力に直面せざるを得ない。そのような、大他者や権威の失墜の後にも、人は「この世界」との結びつき、「この世界」への信頼を支えてくれる何かを必要とする。というか、大他者が失墜した場所でこそはじめて、個としての人の固有の生の困難と責任が動き出す。その時に奇跡のようにやってくるのが、「面白い」とか「すごい」とか「好きだ」とかいう感情(快楽)であろう。あるいは、嫌いだ、とか、うんざりする、いい加減にしてくれ、とか、糞忌々しい、であるかもしれない。絵画の実践は、大他者の失墜の「その時」からはじまる。セザンヌマティスにとって、絵画(の実践)は、「良い物」、「好きなもの」というより、いくらそこから逃れようとしてもまとわりついて自分を把捉する、うんざりするもの以外ではなったかもしれない。しかしそうだとしても、それは「意識的な闘争」とは違っているはず(セザンヌは画家に必要なものは「気質」だと言う、彼は「気質」によって絵画に縛り付けられ、犬のように奉仕させられた)。結局そういうもののことを「好きだ」と言う。そういうものだけが、私と世界との絆となると思う。
●何かを「面白い」と思うこころの動きがあり、その「動き」が、その場に多少固着して持続する「好きだ」にかわる。それは、そんなに単純なプロセスではない。抵抗が、それ自体として意識的−操作的な過程ではありえない以上、「とっかかり」はそこにしかない(ぼくは「意識的な抵抗」というものを信用しない)。「なんか面白い」とか「なんか飽きちゃったな」とかいうことが、制作上でも非常に重要な指標となる。それは、それ自体が権力装置による主体の把捉であり、その作動であるとともに、その逸脱であり、亀裂や崩壊のしるしでもある。その動き内実を繊細に捉えるためには、「正しさ」をめぐる言葉では(あまりに、耐え難いほどに)雑すぎるようにぼくには思われる。それは、今、ここで生まれつつある、生々しい動きや震えを抑圧する傾向にあるように思われる。要するに、「あらゆることの背後に政治性は隠されて(機能して)いる」という言葉は絶対的に正しいがゆえに、お題目と化し、耐え難く退屈で、硬直した事態しか生まないと思う。そのようなお題目が、まさに、今、ここで具体的に起こっている「力」のせめぎ合いを、つまり「政治」を見えなくする。
●以上が長々しい前置きで、ひとつだけ、具体的な指摘をする。以下、引用。
《フレームとは視覚における選択の論理であり、そこでは当然、見られるものと見られないものとの間で、絶えざる闘争が繰り広げられている。我々が、過去の美術作品を見て、ある部分を奇妙に感ずる時、見る主体は、画面に亀裂を与え、対象を変形させる力を感受しているのであり、そこでは感覚の政治性が、事件に対する反応として現れる。
そのような特異点を、様々なる力の交錯の痕跡として見るのではなく、単に面白い現象として愛でるなら、時にそれは、最悪の「政治」として機能するのである。》
ここで、《見られるものと見られないものとの間で、絶えざる闘争が繰り広げられている》と書かれているのがよく分からない。もしこれが、絵画に描かれたもののことだとしたら、それはたんに絵の具でしかないのだから、絵の具自身(あるいは描かれた形象自身)が「闘争」したりすることはない(例えば、存在を忘れられている人々が自らの存在を社会に対して主張する闘争、というのなら政治であろうが)。そのせめぎ合いは、あくまでそれを観ている(描いている)人の頭のなかで、知覚−認知上の過程として起こっていることだ。描かれたもののなかに異なる力のコンクリフトの痕跡を察知し、それによって自らの身体−知覚が解体され構成し直されるという経験−出来事を直接的に「政治」とするのは適当ではないと思う。その、知覚−認知の過程の「背後」に政治性が機能している、と言うのならば理解できるが。知覚−認知の過程そのものが政治なのではなく(それはいわば、個体内部の諸感覚の経済性とでも言うべき次元のものだ)、その作動の背後(あるいは手前)にあるのが政治性だと言うべきではないか。だから、絵を観る−描くことそのものが、直接的にそのまま政治的な出来事だとは言えない。その背後には、常に政治性が貼りついている、とは言えるかもしれないが。よって、それは不可分であると同時に、一定の操作によって切り離し−形式化し得る。この違いは、非常に重要なものだと思う。
付け加えるならば、自分で高度な作品を制作をするくらいに絵が好きな人が、「絵を愛でる」時、その背後で作動している政治性に(意識しているにせよ、していないにせよ)無頓着であるなどということはあり得ない。それが「直接的に言語化されてない(それをことさら言い立てることをしない)」からといって、そのような感覚が作動していないなどとは言えない。「言われていること」がすべてではない(「言わせていること−諸状況」に比べ、「言われ得ること」は常に少ない)。それが言われる背景まで含めた全てを、言語が明示することは不可能だ。だから、「政治性」について常に明示的に語られなければならない、ということもない。政治性について明示的であることによって抑圧されてしまうことを語るために、政治性については語らない、こともあり得る。これこそ、言語という表象−代表機構をめぐる重要な政治的問題だと思うけど。政治的に語る人が、政治性についてセンシティブだとは限らない(むしろ逆だという不信感が、ぼくには根強くある)。
●あと、ぼくは、《絵画における政治性を思考すること》が《「上を目指す野心的」な心性の表れとなる》なんていうことは、どこにも、一言も書いてないはずですよ。上を目指す野心の人っていうのは、そういうこととはまったく関係ない別のことです。