●デランダを読んでいてルーマンが気になった。自己言及(自己記述)がないところには心身問題が発生しない。自己言及がないとすれば、個体を「一つのもの」と認定するのものが「それ自身」以外の別の誰か、ということになる。とはいえ、自己言及というのは、自己物象化でもあると言えるのか。以下、引用、メモ。『二クラス・ルーマン入門』(クリスティアン・ボルフ)より。
ルーマンの構造概念は、たとえばマルクス主義であれば想定するであろう社会の基礎的な経済構造のようなものを意味するわけではないことを確認しておくことは重要である。ルーマンにとって、構造とは予期のことである。予期は、システムがその作動をどのように選択するかということに関して、選択の安定性をもたらすものである。「予期は、可能性の範囲を限定することで存在するようになる。最終的には、予期とはこの限定そのものである」》
《もちろん予期は裏切られることがある。たとえば、ワインの熱狂的愛好家者たちのシステムに新たに加わった者が、何度もワインの話題から脱線して政府のエネルギー政策について不満を述べる、などということがあるかもしれない。そのような予期の裏切りがどのような結果をもたらすかは、当の特定の構造およびその構造に対するシステムの関わり方次第である。ルーマンは予期の基本的形式として二つの意識を区別している。すなわち、認知的予期と規範的予期である。認知的予期の特徴は、予期に反する事態が生じたとき、それへの適応が起こることである。科学システムの内部で、たとえばある仮説が経験的データに照らして支持できない場合のように、ある予期が間違っていることが判明すれば、科学システムはそのことから学んで、その予期を変更する(仮説を修正する)。これとは対照的に、規範的予期の場合は、たとえ予期に反する事態が生じても、予期が維持される。たとえば、刑法は、殺人は悪いことであり、罰せられるべきであるという予期を条文化している。この予期は、実際にはこの予期を裏切って殺人を犯す人がおり、さらに/あるいは監獄から逃亡する人がいても維持される。》
《社会システムは、たんに起こることについての予期を形成するだけでなく、予期そのものについての予期も――おそらくは、はるかに熱心に――形成する。人々は、予期に関して形成する予期にもとづいて、自らの行動を誘導する。ルーマン自身の言葉によれば、「自我は、自分の予期と行動を他我の予期と調和させるために、他我が自我についてどんなことを予期しているのかを予期できなければならない」。この反照性がシステムの構造の安定性を確実にする。》
《要約すると、社会システムは自ら生み出した予期構造を用いて、ありうるコミュニケーションの中からどのようなコミュニケーションを選択するかを統制する、作動において閉じた、自己組織するシステムである。》
《生命のオートポイエティックな再生産は、いかなる意識、いかなるコミュニケーションとも関係なく行われる。それは、意識のオートポイエティックな再生産が、いかなる生命、コミュニケーションとも関係なく行われ、コミュニケーションのオートポイエティックな再生産が、いかなる生命、意識とも関係なく行われるのと同様である。コミュニケーションのオートポイエティックな産出と再産出は社会システムだけが行うことであり、コミュニケーションでない事象は何であれ社会システムの環境に属するのである。》
《同じことは心理システムにもあてはまる。心理システムは意識の作動からのみ成り立っており、この意識の作動は心理システムによってオートポイエティックに産出され再産出される。意識でないものはすべて心理システムの環境に属する。そして、すべての心理システムが意識によって作動するにしても、各システムはそれぞれに特有な、意識のオートポイエティックな再生産を確立する。私の思考はどこまでも私の思考であり、突然他人の思考と融合するなどということはない。もちろん、私たちはそれぞれの考えについてコミュニケーションするかもしれないが、それはまた別の話である。つまり、それは社会システムにおける出来事である。》
《(…)オートポイエーシス概念は、ルーマンのもう一つの重要なアイデアと結びついている。すなわち、作動は出来事であり、現実に起こったその瞬間に消えてしまうものである、というアイデアである。言い方を変えれば、作動は永続性をもたず、だからこそ、いかなるオートポイエティックなシステムにとっても、継続的な自己再生産が決定的な問題なのである。社会システムにとってこのことが意味するのは、コミュニケーションがなされる瞬間のみ社会システムは存在するということであり、社会システムが存続するかどうかは、そのシステムが新たなコミュニケーションを自ら生み出すことができるかどうかにかかっているということである。》
ルーマンによると、いくつかのきわめて未熟なタイプを無視すれば、あらゆるシステムは自己言及的システムと見なされなければならない。》
《一般的に言えば、「自己言及という概念は、要素が、過程が、あるいはシステムが、それ自身にとってひとつのまとまりであるという、その統一性を指し示している。『それ自身にとって』というのは、他者による観察によってそれらがとどのように切り刻まれようと、それとは無関係に、ということである」。主体理論の伝統においてならば、このことは、「私」とは主体の統一性の自己言及的な呼び名に等しく、このような自称はシステムの(主体内の)達成事象であって、それ自体は他者が「私」のことをどのように思っているかということに影響されない、ということになろう。同様に、他者言及(あるいは異他言及)が問題になるのは、システムがそれ自身についてではなくシステムの環境について言及するときである。》
《ある人が自己として登場するためには、その前にその人が「私」と言える(あるいは「私」に匹敵する記号を使える)ようになっていることが必要だが、同じように、システムがまさにシステムになるためには、その環境との区別を、作動におけるシステム自身への言及によって安定化させることができなければならない。つまり、システムは、一瞬自己を環境から区別するだけで、すぐに消滅してしまうならば、それはシステムではないということである。システムがその境界を維持するためには、それ自身への言及が必要なのである。》