●実家にいる間、実家に置いてある(大昔に読んだ)栗本薫の「薫くんシリーズ」と、新井素子の初期の小説をいくつか読んだ。栗本薫新井素子は、同じ年(1978年)に、それぞれ、江戸川乱歩賞と奇想天外社のSF新人賞(佳作)でデビューした。(栗本薫=中島梓は、その前年、群像新人文学賞で批評家としてデビューしてもいる。どちらも講談社で、奇想天外社というマイナーなところからデビューした新井素子とは対照的。)
栗本薫の小説は、「薫くん」という「かわいい男の子」が主人公であり、話者である。七十年代後半の表象物において、主人公が「かわいい男の子」であることのもつ意味は、橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の五章にあますところなく記されている。無茶苦茶端折っていえばそれは、「男は顔じゃない」(男は「見る者=主体」であって、「見られる者=客体」ではない)というマッチョな思考へのアンチ(男の子がかわいくても良い)であり、それは現在感じられるよりもずっと(一般的な「空気」に対して)「挑戦的」な意味をもつのだが、そのような思考は政治の季節(=男性的思考)の挫折の後の無力感とともに、ニヒリスティックに男性にも徐々に受容されるようになる。そしてそれは、少女マンガの男性読者へのひろがりとも関わるだろうし(薫くんシリーズの第二作『ぼくらの気持』は、少女マンガや同人誌の世界を舞台としている)、政治的な主張を挑発的に掲げるフォークソングから、傷とやさしさを繊細にノスタルジックに歌うニューミュージックへの移行とも重なる、「時代の気分」の表現でもある。(栗本薫における「薫」という名前、女性に対しても男性に対しても使用しうるこの名前は、すぐさま庄司薫の存在を想起させるし、当然それを意識していると思われる。)
栗本薫という作家名と、「薫くん」という作中人物は、かぎりなく同一人物に近いかのように書かれている。つまり、主人公=話者=作家であるかのような操作が行われている。その最も顕著なあらわれが、シリーズ二作目の『ぼくらの気持』で書かれている「あとがき」であろう。ここで作家は、あかたも小説『ぼくらの気持』を書いたのが、この物語の主人公である「薫」その人であるかのような書き方をしている。(作中人物が数年後に作家になったかのように。)しかしそれは当然嘘で、誰もが知っている通り実際の栗本薫は女性である。しかし、これを「あとがき」まで含めて「ひとつの小説(虚構)」を成り立たせる「芸(トリック)」であるとみてよいのだろうか。ここでは、「あとがき」を、作家が読者ときわめて近い位置から語りかけることによって、小説全体もまた、読者を共犯者というか同時代の並走者として巻き込もうとする下心、つまり「新しくやってきた者」として自らを立てようとするような操作がある。私は「新しい作家」であり、その読者であるあなたもまた「新しい読者」なのだ、と。つまりこのトリックは、トリックそのものを楽しむ(「答え」を知って、あっ、やられた、と思う)ようなものではなく、読者に「近さ(共犯)」の印象を植え付けるためのトリックであり、これは小説上のトリックというよりも、読者との関係そのものを演出しようとする(無意識のうちに作動する)トリックであると言える。(このようなトリック=詐術の最も見事な例が、『限りなく透明に近いブルー』(76年)の「あとがき」だろう。「作家、村上龍」=「作中人物、リュウ」であるかのような語り口で、「作中人物、リリー」に彼女が実在するかのように語りかける、この「泣かせる」あとがきは、村上龍が天性のストーリーテラー=嘘つきであることを示している。)
●「あとがき」において、作中人物=作者が、読者ときわめて近い位置から語りかける(作中人物=作者であるかのような擬装がなされているため、その語りかける主体の読者への近さはそのまま、作品内の虚構の世界と読者との距離も近いものであるかのように感じさせる)「あとがき」の芸は、ぼくの記憶では七十年代後半の時点では、割合と若い作家におおくみられたという印象がある。それは、文学内部から発生した意匠ではなく、リスナーが書いたハガキを読むというラジオの深夜放送からの影響だったり、あるいは、実際に読者と作者とが近い位置にいるSFやアニメ、マンガなどの同人誌(マニア)の世界から発生したものだと推測される。
新井素子の最初の本、『あたしの中の......』にも「あとがき」が収録されている。そしてまた、ここにも読者に向けてきわめて近い位置から(友人のように)語りかける作家の姿がみられる。しかしここで「あとがき」を書く作家は、16歳で書いた小説で17歳でデビューしたという女の子の「素」の等身大(と感じられるような書き方)で書かれている。そしてこれが重要なのだが、その小説のそのものもまた、ほぼ作者と等身大であるような女の子が話者=主人公として採用されている。つまり、文と読者との「近さ」が、小説と「あとがき」とに共通して、同じトーンで(虚構としての距離の操作=詐術なしで)持続している。小説『あたしの中の......』で描かれる物語は、まったく荒唐無稽なものであり、実際に高校生の女の子であるはずの作家の実体験や実存を、ほんの少しも反映しているとは思えない。前述した村上龍にしても、栗本薫にしても、その小説に描かれている世界は、自らの福生での実体験をもとにしたもの(村上)だったり、ロックや少女マンガのファンたちという自らの親しい環境に取材したもの(栗本)だったりすると思われる。だからこそ作家は、その主人公に対する距離を複雑に操作する必要があったのではないか。物語世界が作家自身(の内的な実存)を多分に反映しているからこそ、そこに虚構としての距離の導入することが、小説を組み立てる時に不可欠になるのだと思われる。しかし新井素子のデビュー作は、まったくバカバカしいお話であり、絵空事であるから、逆に、作家自身が平気で、等身大でそこに入り込むことが可能だったのではないか。
●『あたしの中の......』は、改めて読んでみるととても幼稚な小説だ。しかしこの小説の(この時代での)新しさは、「虚構の次元」の立ち上げを前提とせずに、作家がいきなり「語りはじめ」てしまうような文章にあるといえる。村上龍栗本薫が、小説の文と「あとがき」の文とを通低させるために(つまり読者との近い位置を設定するために)用いたトリックなどなくても、小説の文と「あとがき」の文がはじめからすこしも違わないのだ。それが可能なのは、小説の「内容」がきわめて虚構性が強いので、「文」として虚構の次元をわざわざ仮構する必要がないということとともに、やはり「作家」自身のキャラが強いということもあるだろう。つまり、女子高生で作家であるという作家自身の「素」が既に、キャラとしてすごく強いから、読者は作家自身に「萌える」ことが、物語の次元を受け入れることと同義となる。(奇想天外社から出た『あたしの中の......』では、表紙をめくるといきなり作家のボートレートがあらわれる。この小説を書いたのは「この人」で、本当に女子高生なんですよ、という「作家萌え」なわけだ。)
●そのような条件に助けられているとはいえ、新井素子によって実現した、「素の(素であるかのようにみえる)」作家が、作家ー小説ー読者の間の様々な次元の距離の操作抜きで「いきなり」虚構のお話を語りかけてくるような文章は、(少なくとも小説の文としては)この時点で決定的に新しいものだったのではないだろうか。ここで読者は、物語を読むのでもなく、登場人物の気持ちやその関係性に動かされるのでもなく、「新井素子の語るお話」を聞いている。お話を支えているのは、話の面白さや登場人物の魅力であるよりは、それを語る作家の存在の魅力であり、しかしその存在はあらかじめキャラ化されているので、まるでそれを「私の頭のなかにいる友達」が語りかけてくるように感じている、のではないだろうか。まるで「頭のなかにいる友達が直接語りかけて来る」かのような文の「形式」を、新井素子が独力でつくりあげたとまでは言えないにしても、それを「表に出した」ことは間違いないだろう。
サブカルチャーとは主流に「対する」サブであり、だからこそ対抗文化というわけだ。だからそれは、その時代の主流であるものに対する「アンチ」として、「批評」として成立する。栗本薫の小説の主人公が「薫くん」であることの意味の多くも、そこにあると言える。しかしそのような「批評」は、時代の主流が移り変わると、ほとんど意味をなくしてしまうだろう。事実、ミステリとしての「密度」がそれ程高いとは言えない「薫くんシリーズ」は、たんに風俗的な古さ以上に、小説としての「構え」の古くささを、読んでいてすごく感じてしまう。新井素子のデビュー作からは、このような対抗文化としてのサブカルのにおいがまったくない。なにものかに対するアンチ、あるいはマイナーであることの自負のようなものが感じられない。新井素子の新鮮さはここにもあり、ここにおいてはじめて(バブル期的感性を準備するような)宙に浮遊した「純粋おたく」が発生したかのようにさえ感じられる。(実際この小説で主人公は、年上の男性に対して「お宅は...」と語りかける。)新井素子が、(SFという)マイナーなジャンルに特有の細分化された政治性(文脈)から自由であり得たのは、この作家の基礎となる教養=データベースが主に「父親の本棚」にあるという、SFファン二世であること(自らの主体的な意思によって「マニア」になったのではなく、それはあらかじめ「与えられていた」ということ)に依る部分が大きいのではないだろうか。
新井素子のデビュー作を読んで、なんて幼稚なんだ(なんて密度がなくてスカスカなんだ)とは思うけど、「古い」という感じはまったくしない。これはかなり驚くべき事ではないだろうか。今、栗本薫(のデビュー作)のように書く若い小説家(の卵)は、さすがにほとんどいないだろうが、新井素子(のデビュー作)のように書く若い小説家(の卵)は、いまでもいくらでもいそうな感じがする。いや、だからといってそれがことさら「面白い」というわけではないのだけど。