●昨日の日記を更新して、その後だらだらネットをみていたら、いつのまにか年が明けていた。金原ひとみ「ハイドラ」(「新潮」1月号)、野村美月『"文学少女"と死にたがりの道化』を読む。フィリップ・ガレル『内なる傷跡』をDVDで。
●「ハイドラ」は、この小説嫌いだな、という気持ちと、でも、ここには何か引っかかるもの(リアルなもの)があるのではないか、という気持ちとの間を、ほとんど1ページごとに揺れ動く、という感じで読みすすんでいった。最初の方は、「何か引っかかるものがある」という気持ちの方がどちらかというと優勢だったのだが、しだいに、「この小説嫌いだな」という気持ちの方が強くなってゆく。それでも最後まで読んだのは、途中で、この小説がどんだけダメなものなのかひとつ隅々まで見せてもらおうじゃねえか、というような、意地悪でどす黒い感情のスイッチが入ってしまったためかもしれない。で、最後まで読んでみると、意外なほどきれいに「落ち」ているので、そこですっと憑きものが落ちて、「嫌い」でもなければ、「何かひっかかるもの」があるでもなく、たんによく出来た「お話」という印象しか残らず、読んでいる間の、(「どす黒い感情」のスイッチまで入ってしまったような)あの揺れ動きは一体何だったのだろうか、と拍子抜けした。ということは結局、作家の掌の上で踊らされたということなのか。
物語の組み立てというのか、物語を上手くころがしてゆくための人物の配置のしかたが巧みで、会話のころがしかたとかも巧みで、通俗的な小説家としての才能はすごいのではないかとは思う。しかしその一方、人物や背景が皆、役割以上の厚みをもたない。あと、時々凄く変な、ギャグとしか思えないズレた比喩表現とかがある。この小説でリアルなところがあるとすれば、女の子の一人称による「語り」の堅さが、(例えば歩く姿勢のぎこちなさのようにして)ある種の存在の痛さのようなものを直接的に伝えてくるようなところだろうか。(それは決して「噛み吐き」のようなわかりやすい表象によってではない。)
●『"文学少女"と死にたがりの道化』。ライトノベルはおそらく、今ジャンルとしての成熟期にあって、例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』なんかを読んでもそう思うのだけど、様々なジャンルの先行する作品の成果から「おいしいところ」だけをつまんで、とても巧みに組み立てられていて、驚く。文学というものを、「若い時(アドレッセンス期)にかかる麻疹のようなもの」として捉えるのならば(つまり、三島由紀夫=村上春樹的なものを「文学」と捉えるのなら)、ラノベはほぼ、商品としての文学の完成形といってもいいのではないかとすら思う。村上春樹や吉本ばななが世界的に読まれているのならば、ライトノベルのよく出来た作品も、(翻訳とブックデザインを上手くやれば)世界的な商品として十分に通用するのではないだろうか。(ラノベは、「おたく」という文脈で売るより、文学という文脈で売った方が売れると思う。)
ライトノベルの起源について詳しくは知らないけど、おそらく一方に新井素子に端を発するような独自の(強い欲望や摩擦を隠蔽するような「低値安定」の)口語的文体があり、もう一方に新本格(主に法月綸太郎か)にみられるような、メタ構造の無限後退(「形式」の不完全性)が自意識の底の無さ(根拠の無さ)と共振する小説構造とが合流したところにあらわれたものだと思われる。学校という、欲望と権力とが剥き身でうねっているえげつない環境からの逃避と、独立した自我が育って行く過程で誰もが感じる孤独の感触への共振(とその癒し)を、このような形式は巧みに実現するのだろう。そしてそこに、おたく的な「萌え」をはじめ、様々な要素も合流することで華やぐ。
しかし、ここまで形式として完成してしまうと(今後も、同様な質の高い作品は量産されるだろうけど)、もはやこの周辺は、いくら掘ってもそれほど豊かなものは出てこないのではないかとも、思えてしまう。
この小説でちょっと笑ったのは、中心人物である高校生たちは、井上心葉とか琴吹ななせとか姫倉麻貴とかいう、いかにもラノベっぽい名前をもっているのだけど、彼等より十歳くらい年上のOBは(物語的にはかなり重要な人物なのにも関わらず)、真壁茂とか添田康之とかいうそっけない普通の名前で、つまりあきらかにこの世界は高校生たちのもので、おやじたちは虚構世界の内部には入れてもらえてないことが明らかなのだった。
●『内なる傷跡』。この映画の前半は凄い。何が凄いといって、痴話喧嘩と言ってはちょっと矮小化し過ぎだけど、普通ならアパートの狭い部屋で行われるような、ガレルとニコとの関係の煮詰まりからくる感情をぶつけ合う様が、広大な砂漠を背景に行われているというところが凄い。それによって、たんに二人の人物の関係の煮詰まり様を示す描写が、神話的な悲劇であるかのような広がりをもち、同時に、広大に広がる砂漠の風景が、閉ざされた、がらんどうの内面的な風景のように閉塞的になる。息詰まるような二人の関係の煮詰まりによって、風景が荒涼とした様をみせるのか、それとも荒涼とした風景が二人の関係の煮詰まりのどうしようもなさを際立たせるのか。こういう撮り方があるのか、と驚いた。
ガレルを「ヌーヴェルヴァーグの恐ろしい子供」とするのは、フランス中心的なものの見方で、ガレルはヌーヴェルヴァーグというよりむしろ、アンディ・ウォーホルやファクトリーとの関係が深いように思われる。それはたんにニコとの関係から言うのではなくて、この映画の、何とも即物的で荒涼とした砂漠の撮り方などからそう思う。
(帰省のため、一月二日から四日までは更新お休み。)