柴崎友香の『また会う日まで』(2)

●昨日の日記で、細かいところに文句をつけたりしたけど、柴崎友香の『また会う日まで』(「文藝」2006春号)は、全体としてはとても面白かった。『フルタイムライフ』(あるいは「ショート・カット」にもその萌芽は感じられたかも)あたりからみられはじめた、柴崎氏の小説の登場人物がやや成長した感じが、この小説では割とはっきりと出ていて、それが小説全体の調子も、少し落ち着いたものにしている。今までの柴崎氏の小説の登場人物は、内面や主体性、あるいは記憶(外傷)というものをあまり持たず、ただ純粋な「資質」としてのみ存在しているような感じで、その「考え」や「気分」は、周囲の状況(一緒にいる相手や、その場所、天気など)によって染め上げられていた。だから柴崎的人物は、嫌なことがあると「気分」を変えるために場所を移動する。そして、その人物たちを通して描出される「場所」もまた、人物たちの気分によって少なからず染まっている。そのような、人物(の気分)と場所とが密接に絡み合いながら、その両者が一体となって動いてゆく「動き」こそが柴崎氏の小説の魅力とも言えた。しかし、そのため、柴崎氏の小説の登場人物は、記憶や周囲への配慮などがあまり重たく存在しない「若者」(と言うか「子供」)に限られてしまう、という限界があったように思う。しかし、『フルタイムライフ』では、一つの場所(職場)にある一定期間留まる主人公が、成長という言葉はあまり適当ではないかも知れないが、時間=持続による変化を経験することが描かれた。この
『また会う日まで』においても、主人公の女の子は、職場にちゃんと休暇届けを出して、一週間という期限つきで東京に遊びに来ている。(つまり、ある特定の場所に拘束されている。)主人公が、たいした目的もなく、ただ東京をふらふらするという点では、『青空感傷ツアー』以前の小説とかわりないのだが、しかし、その猶予時間や範囲があらかじめ限定されてしまっているという点で、それ以前の小説とは微妙に異なる。(つまりそれはまでは二十歳前後だった登場人物が、その「資質」そのままで、二十代後半くらいになった、ということだけど。)そしてそのことによって、登場人物が「記憶」と持つ関係が、やや深くなったように思われる。
●柴崎氏の小説の人物は皆惚れっぽく、そして、惚れた(惚れ得る)人物(相手)と、惚れ得ない人物(相手)との間に、とても冷酷な線引きを平気でする。ここで「惚れる」というのは「恋愛」というような大げさな(「文学的な」)ものではなく、もっと素朴かつ、性的、動物的な感覚で、そこには一切の理屈や温情が入り込む余地がない。(柴崎的人物にとっていつも、「気になる人」というのが最も強い「感情」としてある。)つまり、その相手がとても「良い人」だとか「自分のことを思ってくれている」だとか、あるいは、「社会的な地位や権力やお金や将来性がある」とかいうことと全く関係なく、もうただ一目見ただけで理由もなく、情け容赦もなく決定される。このような対人関係における欲望のありようは、主体的にコントロールすることが出来ず、「いきなり」決定的なものとして訪れ、そこから逃れることは出来ない。その、残酷で固定的なあり様は、デビュー作の『きょうのできごと』(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.36.html#Anchor546947)や『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.37.html#Anchor2984985)など、ほとんどどの作品にはっきり刻まれている。そしてそれは、あたかも神が定めた決定事項であるかのように、登場人物がそのことについて迷ったり疑ったり、欲望がぶれたり、つまり、その欲望について「反省的に考え」られることはない。しかしこの『また会う日まで』という作品においては、その「素朴かつ、性的、動物的な感覚」こそが、反省され吟味され追求され、その感触が確かめられているように思う。それは、普通に言う「考える」ということとは異なり、そのような欲望=記憶について、その感触を確かめ直すために、(現在を)触り直す、といった感じなのだが。しかし、このような過去(の欲望)との関係のあり様は、いままでの柴崎氏の小説にはあまりなかったものと思われる。この小説は、高校時代の修学旅行での一場面をひとつの核としてもっている。このような過去=思い出を核に小説を組み立てるのは危険なことでもあって、安易に技巧的にまとめると村上春樹みたいに(というか、よくある安易な恋愛小説=物語みたいに)なってしまう。しかしこの小説では、あくまで現在の対人関係、現在の主人公が置かれた環境の描写が常に強く出ていて、あらゆる事柄が過去の記憶=欲望(感情)の方へと収斂されることなく、過去が核としてあることで「安定(ごく軽い意味での「内面性」)」のようなものが得られる一方で、それに拮抗し、あるいはそれよりも強く「現在」があるので、安易なところ(物語)に落ち込むことがない。(ひとつの例。柴崎氏の小説の関西弁の使用は、たんに読者に対する媚態として機能するのではなく、東京という環境に置かれることで、より複雑な機能をもっている。過去=記憶もまた、現在のなかに置かれることで、同様の機能をもつ。)柴崎友香の小説は、今後増々、複雑に、興味深いものになってゆくと思われる。
●それにしても、柴崎氏の小説の飲食の場面(あるいは、飲食中の会話)はとても魅力的だと思う。これだけ魅力的に豊かな飲食を描ける人って、そうはいないと思う。(そんなに「豊かなもの」を食べたり飲んだりしているわけではないのだけど。)