柴崎友香『また会う日まで』(3)

●小説のなかに実在する地名やその風景が描かれる時(つまり、実在する「ある領域」が示される時)、それは一体どういう効果をもつのだろうか。随分の話だけど、学生の頃に友人が、新宮に行くと中上健次の小説の通りに歩くことが出来る、というようなことを言っていた。ぼくは新宮には行った事がないのだが、実際に行ってみれば、中上健次の小説を読むことから「得られるもの」に、なにがしかの厚みが加わるのだろうとは思う。あるいは、柴崎友香の『また会う日まで』の冒頭は、工事中の表参道駅が印象的に描かれているのだけど、それは、ぼく自身が何度もそこを通った記憶(たんに視覚的な記憶だけでなく、そのなかを「やや戸惑いつつ歩いた」という感覚)と響き合うことで、より説得力が増す。大阪から東京へ遊びに来た女の子が、東京の様々な場所(の風景や表情)を通過するこの小説を読む時、あの辺りは「だいたいこんな感じ」だというイメージが読者におぼろげにでも浮かぶのとそうでないのとでは、小説を読む時の感触には大きな違いが生じると思う。そしてそれはたんに「風景」という視覚的なものと関わるだけではない。この小説は「東京を電車やバスで動き回る」小説で、その移動の感覚は、例えば地方都市で移動に主に車を使用する必要があるような場所での「移動」とは、かなり空間のあらわれかたが異なる。(これはまた、この小説の登場人物たちが、ある一定の年齢になったら免許を取得して、車を所有するのが普通だというような、一般的な感覚から外れた人たちであることとも関係する。)これを、実在する「場所」を小説が取り込んでいる、とか、あるいは、依存している、とか言うことも出来るかもしれないけど、それはむしろ、一方にフィクションがあり、もう一方に実在する場所がある、というのではない、フィクションと現実は実は地続きであり、決して「別物」ではない(フィクションは現実から切り離されて自律することは出来ないし、そうする必要もない)ということなのではないだろうか。フィクションが現実的な「場所」との関係を途切れさせ、フィクション独自の都合や約束ごとによって動いてしまう事を抑制するはたらきが、実在する地名やその風景の描写にはあるのかもしれない。(勿論、作品=フィクションにはフレームが必要で、フレームによって環境から切り離されてあり、作品自身が「自分の力で立つ」ことの出来るだけの内在的な秩序が必要で、この内在的な秩序こそが、その作品の強さ(あるいは「耐用年数」)を決定するという側面もあるのだが、それでも、作品=フィクションは、それ自身よりずっと大きい環境(現実)という地の上にしか成立しないことも確かだと思う。)
●余談だけど、『また会う日まで』では、主人公の女の子がぶらぶらしたり、友人と会ったりする場所は、具体的な地名が記されているのだけど、主人公が泊まることになる(渋谷を通る電車で行く、高級住宅街のなかのボロアパートである)しょうちゃんの部屋がある場所や、主人公が会いに行く(新宿から埼京線に乗って行く、公団住宅である)鳴海くんの部屋のある場所は、だいたいこの辺りかなあという推測は出来るものの、具体的に地名や駅名が示されない。このあたりに、フィクションを成立させるための、現実との微妙な距離感があると思う。