●朝、テレビをつけっぱなしにして別のことをしていた時に聞こえてきたことで、テレビでは避難所で過ごす被災者のための生活上の注意点みたいな話をしていて聞き流していたのだが、そこで、被災した子供たちのストレスの解消法のひとつとして「災害ごっこ」が有効だという話をしていた。実際に被災している人たちが暮らしている場所で災害ごっこなどをするのは不謹慎だと思われるかもしれないが、それは子供たちなりのやりかたで自分たちが被った出来事を租借しているのだから、まわりの人たちはどうかそれを咎めないでやらせてあげてください、と。それを聞いて、人はフィクションこそを現実として生きているのだという感じを改めてリアルに感じた。現実をフィクション化するのではなく、フィクションこそを現実とし、「ごっこ」としてその中に自らの身体をすべりこませることでそれを創造-再創造(再現ではなく)しているではないか、と。それによっておそらく、「現実」として受け入れ可能な着地点を探っているのではないか、と。
先日ある人と話している時にその人が「ずっと、世紀末的なカタストロフィを描いたような映画を好んでたくさん観てきたから、今、自分がその世界にすっと入っていった感じで、今の状況にあまり違和感がない」と言っていて、その人の、現実とフィクションの自然な連続性というかその区別のなさに感動したのだが、この話と「災害ごっこ」の話とが、ぼくのなかですごくリアルに結びついた。一度つくられたフィクションは現実と同等に実在し、現実と同等に作用する。
これは、物語によって感情が共有されるということでも、フィクションのなかに現実が反映される(フィクションが現実を代替−表現する)という話でもなくて(まして、フィクションによって現実が予言され先取りされるなどというまったくどうでもいいことなどではなく)、まさに「ごっこ」として、自らの生や身体をそのフィクションの内部に投入し、自らの生の身振りとしてフィクションが演じられ、その演じるという行為によってさらに現実=フィクションが再創造されるという感触なのだと思う。
内部化されたフィクションが感情として共有されるのではなく、外部化されたフィクションが現実を説明し解釈し配置するのでもなく(それらのどちらに対してもぼくは不信感がある)、フィクションの内部に入り込み、身振りとして演じられ、生として生きられる。身振りとして演じられる過程で、フィクションは行為によって(行為を通して)その都度書き換えられ、フィクション-現実として定位され(身振りのなかで何度も定位し直され)、その、何度も繰り返し定位し直しつづけることそのものが、人が生きられるための場所を創造する。
昨日書いたことと矛盾するようだけど、ぼくにとってフィクションがリアルであるとすれば、そのような位相においてなのだと思った。そう考えると、演劇って、フィクションの起源であるだけでなく、人が人として生きることの起源でもあるのだなあとも思った。
国立新美術館シュールレアリスム展とアーティストファイル、アートフロントギャラリーで浅見貴子展、パーソナルギャラリー地中海で堀由樹子展を観た。ぼくが知らなかっただけで有名な人らしいけど、アーティストファイルで観た松江泰治の作品に衝撃を受ける。