●作品には、そこでやめなければならないという地点がある。いや、より正確には、それ以上に手を入れてはいけないという地点がある。もし、その地点が来てもなお作品の状態に十分に満足が出来ないのだとしても、それ以上に手を入れると、わずかにでもあるかもしれないその作品の良ささえ殺してしまうことになる。それだけでなく、そこを越えてしまうと作品は永遠に彷徨う幽霊のように行き先を失ってしまう。だから、その状態がやってきてもまだ作品の出来に満足できないとするならば、また別に、あたらしい場所で一からやり直さなければならない。その状態がいつやってくるのかは前もっては分からないし、その状態が来ているのかどうか(そこでやめるべきなのか、もっと先へすすむべきなのか)判断する一般的な手立てもない。長く推敲を重ね、場合によっては一生直しつづける必要のあるものもあれば、一筆書きで一気につくられて、それ以上は一切手を入れるべきではないようなものもある。それは、その作品をつくっている人(の意思や思惑)が決めるのではなく、その作品が含み持っている可能性やあり様そのものが決める。それをつくっている人は、一度はじめてしまったら、それに従い、それに付き合うしかない。
絵を描いていると、一度画面に絵の具をのせてしまったら、二度とそれ以前の状態に戻すことは出来ない。鉛筆で引いた線をきれいに消したとしても、紙はその分摩耗し、疲労する。行為は決して取り消せない。しかし、パソコンのワープソフトで文章を書いていると、原理的にはそれはいくらでも直すことが出来る。保存さえしておけば、一番最初の草稿の状態に戻って、そこから再度やり直すことも可能だ。しかしおそらく、そこに大きな罠がある。ある着想なり、インスピレーションなり、感触なり、違和感なり、それは何でもいいのだが、それをもとにして最初に言葉として組み立てられたものと、一度言葉にしたものを、再度書き直すのでは、その言葉を発している人の頭や身体の状態は決して同じではない。下書きのある上に線を引くのと、何もないところにいきなり線を引くのとでは、線を引く行為を組み立てる(発動させる)身体や脳の「構え」が異なってくるから、その線が語るものも異なってくる。一番最初にぽろっと出てくるものと、百回繰り返すことでようやく生み出されるものとでは、まったく同じ文として着地したとしても、そこに含まれるものは異なる。そこに含まれるものが異なるというのは、同じ文からその違いを読み取れ(それが可能だ)という無理なことを言っているのではなく、その文につづく次の文に(それを生み出す身体的な「構え」に)確実に影響するということだ。一度書いてしまった文は、それがこの世界からきれいに削除されたとしても、それを書いた人のなかに確実に刻まれる。最初にあった感触は、その文を書いてしまったことで既に微妙に位置を変えている。作品はそのような細かい振動の積み重ねによってできているから、「それ」が何を必要として、どこに行こうとしているのかを、絶えず「それ」自身から聞き取りつつ先を進めなければならない。その判断に作者の思惑や色気が混じってしまうと、「それ」は行き先を間違ってしまう。その間違った地点を正確に感知して、そこに戻ってやり直すことはまったく不可能とはいえないが、作品はそれを作っている人の意図を越えた、一手ごとに作用する微妙な振動の複合作用と積み重ねだから(人間の頭や身体は「思った通り」に動くのではなく、むしろ「思い」の方が脳や身体が行為を組み立てる複雑な組織化の結果であるのだから)、それをするのはとても困難だ。
一度そう書いてしまったことは、その文そのものが消えたとしても、それをそう書いたという事実自体は決して消えない。だから、いくらでも修正が可能だというのはあくまで原理的な話であって現実的な話ではない。いったん成立してしまった作品には、それが良いものであれ悪いものであれそれ自身としての必然性があるから、そこに手をいれることは、それをつくった人にさえ可能ではないとぼくは考える。逆に、作品が「もっと手を入れるべきだ、もっと先に行けるはずだ(あるいは、これではまだまだ混乱している)」と言っているなら、嫌でも面倒くさくてもそれに付き合わなければならない責任がある。手を入れるべきかそうでないかは、それをつくっている人が決めるのではなく、作品それ自体が決める。だから、その作品の言うことを、制作の途中のどの段階においても、出来る限り正確に聴きとろうとしていなければならない。制作のどの段階においても、その時、そこですべきことは、その時、そこでするしかなく、先回りしたり、後回しにしたり出来ないし、やり直すことも出来ない。
●勿論、そこを誤魔化して、「それなりのもの」に見せかけることはいくらでも可能だし、実際、多くの作品はそのようにして出来ている。ぼく自身も、誤魔化したことがないなどとは決して言えない(むしろ、誤魔化しをどこまで減らせるのかが現実的な問題だ)。しかしそこには明らかに精度の違いが生じる。ぼくにとって作品で重要なのは、主題でも物語でも意味でもコミュニケーションでも政治でもなく、この精度だけなのだと思う。つまり、精度こそが普遍性をもつのだと思う。