●作家論、さあ、これから佳境に入るといったところで、仕切り直しの意味もあって、一休み。久しぶりに、まったく関係のない本を読んだり、新宿のジュンク堂へフェアの棚を覗きに行ったりした。
作家論とか、作品論とかを書く時、だいたい一ヶ月から二ヶ月くらいは、集中的にその作家の作品ばかりを読むことになる。これは、頭のなかを「書ける」状態にするために必要なことだし、基本的に楽しいことなのだが、でもそれが、「楽しい」とか「面白い」とかの範疇をこえて、「義務」みたいな匂いがすこしでも混じってしまうと、とたんに意味が違ってしまう。基本的に、作品に接する時の態度は、面白い、とか、好きだ、とか、魅了される、とか、刺激される、とかいう、「浮ついた」もの(根拠を求めることが出来ないもの)であるべきで、そこに、ちゃんとした文章を書くための「責任」みたいな感じが混じってしまうと、途端に鬱陶しくなる。「責任を背負い込む」という態度は、一見真面目なものにみえるけど、それは本当の意味では真面目なものではないと思う。少なくとも「作品」に接するときは、あくまで「浮ついていること」こそが、ふらふらし、ふわふわした、根拠や正しさを前提と出来ない接触感を手放さないことこそが、本当の意味で真面目な態度なのだと思う。面白い、とか、好きだ、ということを逸脱して、責任によって作品に接しはじめると、その途端に、読むことによって作品を殺す、ということを無自覚のうちにはじめてしまうのだ。
以下は、樫村晴香「Quid?」から引用。
《小説は基本的に不利な装置だ。それは文章でしか書けず、線的な思考、意味作用に容易に捕らわれる。私とは何か、という問い、「存在」という驚異と疑念の 瞬間が現れる現場を捉え、再現・解剖・加工するのでなく、「存在」と対話し、隣人に接するように受け答え、ご機嫌を取って引き留め、あげくは友人になって 後々面倒を見てもらおうとさえする。「彼女は美しかった」「彼女は苦しんでいた」。そう書き出すや、文は感想文と遡及的意味づけの開始となり、その演説に 彼女はまみれる。》