●昨日は朝方まで原稿を書いていたので、起きたのは昼過ぎだった。後頭部のあたりに、軽い頭痛が残っている。目が覚めて、あまりに涼しいので驚いた。昨晩というか、朝方もかなり涼しかったが、昼を過ぎているのに朝方とあまりかわらない感じだった。今日は涼しいので、喫茶店には出勤せず、部屋で原稿を書こうと思った。その前に、目覚ましのために散歩する。「上手く戻ってこれていない」感はまだあるのだが、原稿を書くことを通じて、少しずつ戻ってこられているみたいだ。
●純粋な「作品」という概念は、近代の西洋という特殊な時代、地域のものだという話はおそらく正しいのだろうが、逆に言えば、人間のつくるものは何にしろ(その意図はなくても、結果として)幾分かは「作品」であらざるを得ないというのも、本当の話だと思う。万博記念公園にある国立民俗学博物館を観て、そのように感じた。「それ」は、そこで生きた人たちにとっての環境であったり、社会の形態であったりを表現するだけでなく、そこには、この世界にあらわれた「ヒト」という形象のもつ普遍的な組成や、人間が、持って生まれた自分の身体と感覚を通してしか世界と接触出来ないという孤独な感触さえもが、確かに表現されている。だからこそそれは、「作品」という感触をもつ。
民俗学の博物館など、近代西洋の帝国主義的収奪の産物であり、強権的に収奪され、文脈を奪われたものたちが、博物館などというフラットな空間に(既に死んだ形で)並べられているからこそ、それがあたかも「作品」であるかのように見えるのだ、という話は、確かに言説として正しいし、その正しさを認識しないで、博物館を無邪気に楽しむのはやはりどうなのかとぼくも思う。確かに、そこに並んでいるのは、既に死体であり、抜け殻でしかないものたちだろう。しかし、そのような言説としての正しさをこえて迫って来るもの(物の力)が確実にあることは否定のしようがない。(「作品」である、ということは、そういうことでもある。)文脈の内部にいるような濃い、本物の感触には遠くおよばないのは仕方ないとしても。逆に、文脈から切り取られ、フラットに並べられることではじめて得られる認識もある。
国立民俗学博物館を観て感じるのは、自分が普段、見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしていることが、いかに狭く閉ざされた範囲のものでしかないのか、ということと、しかし同時に、人間のやっていることは、時代や地域に関係なく、それほど代わり映えはしないものなのだなあ、という、一見矛盾した二つのことだ。この二つのことが矛盾しているのは、たんに言葉の上でだけの話で、実際には矛盾などしていないことは、そこにある膨大なものたちを見れば納得がゆく。
それにしても、子供の頃からこんなものを見ているのだから、大阪の人は皆、さぞスケールの大きな大人になるのだろうなあとも思うのだが、しかしおそらく実際にはそんなこともなくて、そこが人間の難しいところというか、「変わらない」ところでもあるのだとも思う。(でもそれは、これを見ることが無駄だということでは全然ない。それは絶対無駄ではないはず。)