●寒い夜だった。最寄り駅に着いたのは十二時を過ぎていた。冷たい雨が降っているが傘はなかった。アパートまで歩く途中、細い道を消防車と救急車とパトカーがふさいでいた。人も何人か集まっていた。どこかが焼けたような痕跡は見つけられなかった。酔っていたので帰ってすぐに寝た。夢のなかで目覚めた。目覚めた後、とても幸福な夢を見ていた。酔って寝たので中途半端な時間に目が覚めた。夢が、いかにも「ラストシーン」っぽいイメージに突き当たると目が覚めてしまうのだろうか、とも思った。あまりに幸福な夢だったので、横になったままイメージを反芻した。できればそのままもう一度眠りたかった。反芻される幸福な夢のなかに一点、とても悲しいイメージが混じっていて、想起がそこに行き当たった。そのとたん、悲しいイメージが大きくふくれあがった。あまりに悲しいイメージだったので、鼓動がはやく、つよく打ちはじめた。再び眠るのを一旦あきらめて、これを書いた。
●銀座のGALLERY TERASHITA(http://www.gallery-terashita.com/)で、今澤正・展。今澤くんの絵を観て思うのは、人は決してものを見ているのではなく、イリュージョンを見ているのだ、ということだろうか。いや、しかし、イリュージョンという言葉は、七十年代の日本の美術批評の文脈で、あまり面白いとも適当とも思えない問題設定のもとに使われた用語で、手垢がついてしまっている言葉だから、こういう風に使うと違った意味になってしまうか…。
人は、見ることによってイメージを掴むが、しかし、見ることと、イメージを掴むこととは、別のことだ。見ることによって得られたデータが演算処理されて、イメージが形作られる。イメージは、見ることのひとつの解決、回答としてあらわれる。勿論、いったんイメージとして解決されたものが、さらに見ることで修正されることもある。見ることとイメージとの関係は、きわめて柔軟であり、だからこそ厄介でもある。見ることによって得られたデータがイメージへと構成される過程の演算は複雑なもので、その過程で視覚は視覚以外の要素と入り交じるだろう。視覚的イメージは、視覚的なものだけからできあがっているわけではない。
だから、見ること(見たこと)とイメージとはぴったりとは重ならない。見たことの全てが、イメージの構成要素として、自らの収まる場所を得るわけではない。見ることは常にイメージからはみ出る。しかし、イメージからはみ出た「見ること-見たこと」は、イメージではないのだから、見えない(意識化されない)。見ているはずなのに、見えてはいない。それは、いったん掴んだイメージへの違和感として、あるいは、いったん掴んだと思ったイメージへの「自信のなさ(不安)」としてしか意識化されないだろう。今澤くんの作品の感触は、まさにその、今、見ている、今、見えている、と思っているイメージへの自信のなさのなかにこそあらわれる。それは、この世界のなかには場所を得ることのできない何かのつぶやく声のようなものとして、聞こえない声として響く。あるいは、ある微妙な音が発生源を特定できない時、それが音なのか耳鳴りなのか分からない、というような不安のなかでしかあらわれない感触。新作を観る度にさらに精巧になってゆくように感じられる今澤くんの超絶技巧(これは本当に半端ではない)は、その何かに奉仕するためにこそ日々鍛えられているかのようだ。
今澤くんの絵は、作品というレベル以前の、ものの知覚というレベルでさえ、見る者に容易にはイメージを結ばせない。つまり、いくら見ても、なかなか「見えない」(見えた、という気持ちにさせない)。この、見えなさ、掴めなさが、作品を、ものでありながら、ものでないような、何かが見えてはいるのに、手を伸ばせば触れられるはずなのに、それが実在しないかのような、不思議な感触を発生させている。知覚=想起=夢であるかのような。