●五時前なのにもうすっかり暗いと思いながら喫茶店に向かう。十一月になった。
「偽日記」は、99年の11月5日からはじまった。だからもうすぐ丸十年になる。十年ということでの感慨などは特にはないけど、自分にとっての「偽日記」に位置づけについての迷いや疑問のようなものがいろいろと出てきてはいる。例えば、「書く」という次元とは別のところで必要となってしまう「配慮」みたいなものに対して、どう距離を取っていけばいいのか、など。未来の自分しか読む人がいない、ノートに書き付けるような日記と違って、ウェブ上にアップする日記は誰かが読むかもしれない。誰も読まないかも知れないし、どこにも繋がっていないかもしれないけど、どこか遠くに、あるいは思いもかけない未知のどこかに繋がっているかもしれない、そのような遠くからの架空の眼差しのようなものが、たぶん必要だった。先の見えない暗がりにむかってひたすら遠投を繰り返すことが自分を支えていた。しかし長くつづけているとどうしても、多少は、「偽日記」読んでます、と言われることも出てきて、そうするとどうしたって、書くときに、あの人が読むかも知れないという具体的な人の顔が浮かんでしまったりする。そこで自動的に作動してしまう「配慮」のようなものに、どのように対すればよいのかということについての軸や基準が、定まっていないというか、どうしたらよいかよく分からなくはなっている。その次元で「悩む」ことが多くなっている。あるいは、暗闇への遠投ではなく、落としどころを狙って投げる、みたいなことに知らないうちになっていたりする。
十年を期にすぱっと止めるというのはどうだろうとも考えたのだが、残念ながらぼくは、自分がそういう竹を割ったような性質でないことを知っているので、そんなことにはならないだろう(正確に十年目の日を避けて、中途半端に今日こんなことを書くのも、そういう風にピタッと決めるのが嫌いだからだと思う)。きっと、しばらくは軸も定まらずにぐずぐず続くはず。いや、ずっとぐずぐずかもしれないし。だいたい、日記を書かないで生きていけるのかどうか分からない。特にビジョンがあってはじめたわけでもなく、絶対つづけなければならないという強い決意があったわけでもないのに、結果としてつづいているということは、おそらく自分にとっては、どこに届くか分からないウェブで日記を書くことが必要だからだろうと思う。ミクシーとかツイッターみたいな社交的な場では、ぼくは決して生息できないのだし。
たまに、「古谷さんは小説を書きたいという気持ちはないんですか」と聞かれることがあるけど、ぼくも九十年代の中頃に、いくつか小説を書いたことがある(一応、ちゃんと完成はさせた)。でも残念ながらそれらは、自分でも「これは違うだろう」としか思えないものだった。上手いとか下手とかの問題ではなく、根本的に「違う」でしょうという感じ。だからたぶんぼくは、小説を書くかわりに「偽日記」を書いた。いや、こういう後付けは、いくらでも、なんとでも言えてしまうので信用ならない。ただ、ぼくにはこういう形でしか書けなかったのだし、それは基本的に今でもかわらないのだと思う。小説を書こうとすることは、二年くらいで止めてしまったけど、日記は十年はつづいている。
「偽日記」は「はてな」に移行してから堕落したという話を、直接的、間接的に、何人かの人から言われたこともあるけど、正直言って、どこがかわったのか、どうかわったのか、自分ではよく分かっていない。分かっていないので、少なくとも自分でそれが腑に落ちる(あるいは、決してそんなことはないと確信出来る)までは、日記そのものを止めるわけにはいかないだろうとも思う。
(もとの形式に戻すと簡単に言っても、自分のパソコン内でウェブサイトをすべて構築して、それをプロバイダのサーバにアップするという形だと、今回のようにパソコン本体が壊れてしまった上に、サイトを構築しているソフトがもうどうしようもなく古くなってしまって現在の環境に対応出来なくなったりすると(十年というのはそういう時間だ)、その構築したもの全て(十年分の日記の配列)をつくり直さなければならなくなって、お金の面も含めてその労力は大変なもので、今の自分にそれをやっている余裕はとうていないので、そこもどうしたらよいのかさっぱり分からない。過去のものはとりあえずそのまま置いておいて、「偽日記」の更新されてゆく部分だけを、改めて別の場所につくればいいのか。あるいは、壊れた古いパソコンをなんとか直して、「偽日記」の更新だけは、そのボロボロのパソコンでずっとやっていく、とか。とりあえずぼくの興味は「書く」というところにしかなくて、パソコン好きでもないので、そういうのは考えるだけで本当にめんどくさいのだが。)
そういうことも含めて、「やりながら探ってゆく」しかないので、迷いや疑問があったとしても、確信を持てないまま、いろいろ試行錯誤したり、軌道修正したりしながらやっていく。「これだ」という確信を持てたところで事を起こそうなどと考えると、きっとぼくは何もしないまま一生を終えるだろうから、特にこれと行ったビジョンはないけど、なんとなくだらだらやりながら考えて、考えながらだらだらやっていく。やっていれば、気づくこともあるだろうし、何かにぶつかることもあるだろう、という感じで、きっと今後もやってゆく。